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概要

海外慰霊巡拝についての概略説明

「厚生労働省では、旧主要戦域や遺骨収集のできない海上において、戦没者を慰霊するため、昭和51年度から遺族を主体とした慰霊巡拝を計画的に実施しています。また、旧ソ連及びモンゴル地域においては、抑留中死亡者の埋葬地の慰霊巡拝を実施しています。」
厚生労働省ホームページから引用)

遺族者の感想

延岡市 女性(戦没者の子)

 平成19年の5月、厚生労働省社会・援護局から抑留中死亡者巡拝に参加しませんかという内容の文書が届きました。戦後63年目の突然の連絡に驚きました。

 私の父は終戦後4年間捕虜となって抑留され、シベリアのカラカンダの病院で亡くなったと聞いていました。戦後まもなく両親を亡くした私達3姉妹を必死に育ててくれたのは祖母でした。いつも父の帰りを強く願っていた祖母のことが思い出されました。家族と相談し、妹と2人で参加することにしました。

 平成19年10月8日にカザフスタンに向けて出発。首都アルマティに到着したのは日本を出発して12時間もたっていました。カラカンダにはさらにそこから飛行機で2時間、バスで5時間かかりました。バスの車窓から見える景色は、地平線に向けて草原の中を1本の道路が果てしなく続く草原でした。道路に平行してシベリア鉄道が走っていました。この鉄道は日本の捕虜の人達が作ったのだそうです。父もこの地のどこかで働かされていたのだろうと思うと、涙が頬を伝ってきました。妹も景色を黙って眺めていました。真っ赤な太陽が地平線に沈む頃カラカンダのホテルに到着しました。

 次の日から墓参が始まりました。カラカンダでは4ヶ所の埋葬地を2日間かけて回り、父も含めて7名の追悼式が行われました。
 見渡す限り何もない草原の丘に、各国の慰霊碑が建ち、父が収容されていた収容所は跡形もなく、軍事地域となって立ち入り禁止になっていました。妹と2人で出来るだけ近くへ行って父の名前を呼んで泣きました。日本から持ってきたお茶やお酒などと共に参加しなかった妹が父に書いた手紙を供え、近くにあった1かけの石と土を袋に入れました。

 その後回ったところでは埋葬地や慰霊碑を捜すのに時間がかかりました。1名の方の埋葬地はとうとう見つかりませんでした。

 戦後60年以上たって改めて戦争の惨さを思いながらの旅となりました。時間がたち埋葬地などが分からなくなりつつあるところも多いようです。出来るだけ早く整備し、遠く離れた地に眠っている方達を日本に連れて帰って祀ってほしいと、今回の巡拝に参加して強く思いました。


ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝に参加して

延岡市 女性(戦没者の子)

 平成19年5月、厚生労働省社会・援護局より県を通じ、ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝の参加希望の案内が来ました。

 私の父は第2次大戦後、ソ連に抑留されカラカンダ(現在はカザフスタン)に収容され病死したそうです。母も戦後直ぐに病死し、私達3姉妹は両親の記憶のないまま、祖母の手によって育てられました。幼い時から祖母より父はソ連のカラカンダで死亡したということを聞かされておりましたがカラカンダがどこなのか、遠い地の果てのような思いでした。その後、結婚、子育てを終えた頃から父の埋葬地に行って慰霊したいと思っておりました。このため今回の案内は願ってもないことでした。

 今回の慰霊巡拝は平成19年の10月8日から17日まで遺族14名と厚生労働省関係者3名でカザフスタンのテミールタウ地区、カラカンダ地区とアルマティ地区の8収容所で亡くなられた方の慰霊を対象にしたものでした。これらの地区のほとんどは索漠した広大な乾燥地帯の平原で当時の収容所の面影もないところでした。私達はこのあたりが埋葬地といわれる場所に追悼台を設け、全員で追悼しました。遺族の方は今までの長い長い思いが一気に噴出したのであろう、感きわまって号泣され、我々参加者も貰い涙しました。

 私の父の埋葬地の第99収容所跡は私達を含め5名の方が一緒でした。ここも一面の乾燥した平原で、辺りは建物1つないところに共同墓地らしき場所がありました。その近くに献花台を設け、皆で追悼慰霊しました。私と姉はお花、果物、日本から持参したお茶、父の写真、今回来れなかった妹が父への思いを綴った手紙を追悼台に置き、積年の思いを込め合掌しました。冬はマイナス30度以下にもなるという極寒のこの地で命を絶った父を思いながら、60数年の間どんなに私達に逢いたかっただろうと思うと涙が止まりませんでした。

 最後に、今回の慰霊巡拝を企画していただいた厚生労働省及び引率頂いた関係者の方々には大変お世話になりました。


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