戦争を体験したひとびと
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命の値打ち

高鍋町 男性
 私は、昭和18年12月、特別幹部候補生の募集があり、入校と同時に一等兵、一年後には進級して兵長というので延岡まで行って受験した。検査官は、不合格、合格印を前にして、「お前はどういう気持ちで受験したか」と問われたので、「お国のために働きます」と私が言うと、「よし」と合格印が受験票に押され、私の青春時代である軍隊生活が始まることとなった。
 昭和19年4月兵庫県加古川市にあった航空通信学校に入校し、全国の中学校、専門学校から集まった若者ばかりで1年間の教育を受けた。
 次は、軍隊生活の中での私の思い出である。
 ある日、人事係の准尉の言葉「お前達の値打ちはどれ位するか知っているか」皆黙っていた。「お前達の命は1銭5厘の値打ちしかないのだ。1銭5厘のはがきで入校しているのであるからそれだけの値打ちだ」また、昭和20年3月に四国の多度津の工業学校に卒業演習に行く途中のことであった。
 高松港桟橋の鉄板に氷が張っていたが、軍靴に鋲が打ってあるので大丈夫とは思いながらも、注意深く歩いている矢先転んでしまった。したたか尻もちをついて痛い。班長の一声「銃には傷はついていないか」私がひどく腰のあたりを打っていることには何も言わない。菊の紋章が彫印してある銃の方が私の体より大切なものであった。
 多度津での演習は、送信所と受信所とが200メートル位離れている教室を利用して行っていたが、ある日のこと、送信所から「ツウ」「ツウ」と「来い」との暗号である。私が行ってみると、部屋から焼きいもの臭いがする。班付兵長に見つかったら大変と窓を全部明けてもなかなか消えない。困っているとき「ツウツウツウツウ」の「上官が来る」の暗号。みんな観念して裁きを待った。
 演習が終り、全員集合がかかり、いよいよ始まった。
 「壁に向って正座せよ」と班付兵長の命令。30分過ぎて全員起立。そして、班付は自分の履いていたスリッパで一人ひとりに往復びんたとなった。私の順番となったとき、私は11発までは数えていたが、それからは痛さも感じなくなり何かほっぺたをなぜている位の感じしかしなかった。後で頬ははれあがってみそ汁がしみた。
 私達の小隊長は二等兵から少尉になり上った人でよく「日本人の根性はたたかなくてはなおらない」と言い、何かことある毎に2列に向かいあわせ、往復びんたを強制した。ある時私は、相手からの一発目が耳に当り鼓膜を破ったらしく、他人の声が「ブルブル」というだけで聞こえない。医務室に行くと軍医が「鼓膜は自然に治る」と言っただけで一週間の安静治療で寝ているだけだった。私の耳を打った相手も私も何の恨みもないのに、こんなことをやらされた。
 昭和20年5月、山口県小月飛行場に派遣された私は、班付兵長として初年兵の世話をすることになった。
 初年兵といっても召集で来た人で中には頭のはげている人もいるくらい年輩だった。この初年兵がある日、こそこそと耳打ちしている。問いただすと、「一人の初年兵がへまをしたので、今晩消燈時に班全員たたかれる。」という。私は班長のもとへ行き「初年兵のへまは私の責任、指導の仕方が悪かったのだから、私をたたいてくれ。」と申し入れた。私は自分の鼓膜を破った時の痛みを知っているので、そのような行動ができたのだと思う。班長はなぐらなかった。初年兵達は「私の息子も班付と一緒ぐらいです。」と言って喜んでくれた。
 たたかれて痛いことは皆同じ、自分の思いなりにならないからといってたたく。しかも他人にたたかせることは許し難いことと私は思う。
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