戦争を体験したひとびと
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終戦直前の中尾

高鍋町 女性
 昭和19年末ともなると戦争はいよいよ激しくなり、高鍋町にも戦死者が次々と遺骨となって帰ってくるようになりました。また、かなり年な人にも召集の赤紙が来ました。
 国防婦人会でも、いざという時は敵と戦わなくてはいけない。そこで在郷軍人に来てもらい、竹槍の訓練、気をつけ回れ右とみんな真剣でした。年なおばさん達は、くるっと廻って向いあわせになっている。おかしいが笑うこともできませんでした。そうしていると、空襲警報が鳴りだし、間もなくB29が3機・6機・9機とかすり模様で飛んで来る。こうしたことが毎日の繰り返しで落ちついて農作業も出来ませんでした。
 ある日のことです。空襲警報が鳴るとすぐ大きな爆音と共に敵機が低く飛んで来ました。と同時に私の目の前をうす赤い火玉が「ヒューッ」と音を立てて通り過ぎました。私は思わず座り込んでしまいました。
 しかし、じっとしてはおられません。子供達2人が近くで遊んでいるのです。早く子供達を探し防空壕に入れないと、また敵機が来ます。私は夢中で畑を走り子供達の名を呼びました。百一部隊の方では大きな爆発音が続いて起こりだしました。そのうち、子供達は何もなかったように下の田んぼの畦道を帰って来ました。3歳と5歳なので恐ろしさがわかるはずもありません。私は手を引いて走りました。
 昼間は余りわからなかったが、夜になると「ドカーン」と音をたててはドラム缶が爆発し、真昼の明るさでした。燃えてしまうまで何日もかかりました。
 こんなことのあった何日か後のことです。私の家に軍の係官が来て父と相談がありました。「一か月余り家を貸して欲しい」とのこと、また、「アメリカ軍が南九州に上陸するらしい」との話が聞こえてきました。父は表の八畳二間を貸すことにしました。
 その翌日からいろいろな品物がいっぱい運び込まれ、兵士の出入りが激しくなり大変なことになりました。お風呂は私の家の者と兵士が一日交代となったり、井戸さらえをするなど、あわただしい日々が続きました。井戸水は遂に底をつき、炊事場は唐木戸の中央に湧水の出る所があったのでそこへ行きました。
 隊の本部は、唐木戸の山の中、今の公民館の近くでそこに食糧倉庫等といっしょに建っていました。そして、近くの山には大砲の台座が作られようとしていました。また、その周りには沢山の防空壕・横穴・たこつぼが堀られて草木で覆ってあり、戦争も激しくなるなと思ったことでした。しかし、この砲座には大砲は座らず敗戦となってしまいました。
 この軍隊が中尾に来たためにいろんなことがありました。井戸水に不自由したこともそうですが、こんなこともありました。
 ある農家で幼児が庭で遊んでいて、焼灰の中に顔を伏せてしまい火傷をしてしまいました。当時は車もなく町まで行くのにもずい分時間がかかっていたので、子供の母親は困ってしまったのですが、ちょうど隊にいた軍医さんに手当てをしてもらい、顔が引きつることもなくきれいに治って大層感謝されました。
 やがて、山の中に兵舎が出来たのでどの家からも兵士が引き揚げてからのことです。どの家でも「体がかゆい」と言い始めました。調べてみると白い大きなシラミがいました。兵士が風呂に入るときに落としていったもので、畳の縁などに卵が生みつけてあり大変でした。
 本部や兵舎・倉庫等に電気を引くことにしていたらしく電柱がたくさん集められていました。終戦になると「中尾のみなさんにはいろいろご迷惑をかけましたからこれで早く電気を引いて下さい」といって電柱をもらいました。そのために私達の村では早く電気が点きました。夕方5時になると、裸電球だったけど明るくなりました。子供達は喜んで隣近所まで見て廻ったものです。夕方のランプ掃除も、石油入れもしなくてよくなり便利になりました。
 戦争は田舎の中尾までいろいろな影響を及ぼしたのでした。
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