戦後50年を迎えて |
戦後五十年を迎えて
西都市 女性
私は昭和18年4月、親の猛反対を推し通し、大陸に憧れ、渡満、会社事務員を職業としておりましたが、昭和20年8月終戦となり、その混乱のため帰国の途を閉ざされ絶望と生命の危機にさらされておりました。昭和21年2月、現地の中国人と結婚し、露命を償う事が出来ましたが、終戦後30余年、人様にはお話し出来ない程の並々ならぬ労苦は並大抵ではなく、時には何度か生きる力を失い、子供達を道連れに川辺に立った事もありました。
その時代は、国民党と共産党の内乱騒動があり、私達の生活は大変でした。各商売は約2年間閉鎖になり、明日の暮らしに困るみじめな姿は想像もつかない有様でした。木の根をかじり、野の草を食べ、1日3食まともに食べる事も出来ません。真冬零下20度には綿入りの衣服や靴が必要になり、子供達に手作りで夜遅く迄縫い続けていました。満腹していない腹の中は床に就いても夜通し寝つかれない、でも心の中は祖国と故郷に住む肉親への思慕の念は一時なりとも絶えませんでした。
5人もの子供をもうけたら、何時の日か必ず祖国日本へ帰国の道を固く心に決め、子供には罪はない、何もかも私のまいた種、死んだらあかんと、日頃思い返して生き抜いて参りました。一生忘れ去り得ない事は、子供達が大きくなるに従い、母親が日本人である事が、学校に、社会に、大きく影響した事は事実でございます。
日中国交正常化の兆しが見えるや、いち早く帰国への準備を致しましたが、すでに成人した子供達は、私の帰国をなかなか許してくれず、ついに昭和49年12月次女(当時10歳)を同伴して、夢見て待った帰国が無事実現しました。
山口の宇部市に眠る亡き父母の墓に膝まづき、過去の様々なことが走馬燈のように思い出され親不幸の詫びに泣き崩れる自分を傍らで見守る次女、またこの親子の姿こそ侘びしいものだったと思います。
帰宅は西米良に住む姉の家、子連れの居候も21日限りで昭和50年1月私は迷惑を感じ宮崎へ出て、旅館に親子2人の新しい出発、そのころ親子は日本へ永住する決心をしておりました。しかし裸一貫の身、やり直しの生活もなかなか楽ではありませんでした。言葉も通じない、西東も分からない娘に、私は口ぐせの様に二人して、人に負けず頑張り必ず住宅を持つ事を誓い合っており、懸命に無鉄砲に働き、右足先等2回手術、潰瘍でも2回入院、病気等恐れずなんでもやり通す自分が呆れる位でした。
たまには子供達を叱り飛ばし、どうしても「乗り込んだ船には乗り通す」の一心は強くとも、あの頃、人知れず心の底まで疲れ果てた事もございました。
宮崎に1年8ヵ月、娘も宮崎小に担任の先生や級友に助けられ、言葉や勉強も早く進歩し、親子して西米良に18年、娘も小・中を卒業、西米良の村長外職員村民の厚い同情と友情に助けられ、現在まで無事親子共々幸福な生活と安定した日々を送らせて頂きました。これも皆、西米良村に居住した皆々様のお陰と深く感謝致しております。
今は5人の子供達も全員東京に居住しています。次から次へと来日する子供達には、気苦労と心配が山程ありますが、お陰様にて誰一人政府にご面倒をお掛けする事なく、生活補助も受けておりません。
次男と三男は住宅を求めそのローンに大変、我が子ながら感心しております。21人の大家族で、私も10余年前この古家を買い求め、今は「住めば都」で8年2月満70歳、唯生きるという事は「焦らず、休まず、諦めず」苦しくても涙をのんで頑張って参りました。
しかし中国残留孤児に比べると、私達は本当に幸福だと思います。戦後50年、あの孤児達が異国で永い年月に私達残留者と同様に、どの様な思いで生活をして暮らして来たか、私達残留婦人には良く分り、我が事の様に思えてなりません。誰でもやれば出来る事を信じ、私共家族は自力で頑張りますのでよろしく御指導と御協力をお願い申し上げます。
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