戦争を体験したひとびと
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阿鼻叫喚

都城市 女性
 私の家は、当時旅館を経営しておりました。24歳頃で、庄内には兵隊さんがたくさん駐留していましたので、軍人さんへの面会客が多く、毎日忙しい日をすごしていました。また将校さんの宿舎にもなっていました。
 その中に特攻機の整備士の方がとまっておられました。少尉さんでした。その方の言っていられた言葉を思い出します。「きょうは、風が吹いて出撃出来なかったからよかったなー」とか、「きょうもだめだった。風が吹いて出られなかった」とか複雑な心境を吐き出されていました。朝2時から3時頃朝早く旅館を出ていかれておりましたが、戦友愛といいますか、生を共にした男子同志の感情は、女の私には到底わかるはずもなく、ご武運を祈るだけでした。
 ある日、新婚さんと思われる女の人が宿をとりましたが、翌日その飛行機はとび立っていったと聞きました。庄内公民館には戦禍をさけて、沖縄の方々が疎開されていられましたが、大変御苦労なされていらっしゃったのではないでしょうか。
 空襲の日の事を思い出すとき、『あびきょうかん』とは、ああいう状態をさすものだと思います。庄内川の方へ“ワァッ”と逃げ出す人の波。一瞬にして生き地獄となりました。炎と爆音におびえながら、私の家の前を庄内全体の人が右往左往して逃げ出す様な状態でした。
 私と妹は床の間近くにあった米俵2俵を持ち出すのに必死でした。無我夢中でした。やっと二人で外にかつぎ出し、安心しましたが、食べ物だけは確保しなくてはならないその気持ちがそうさせたのでしょう。
 さて空爆もやっと落ちついて、米俵を家に運び入れようとしても、持ち上げることが出来ません。よくもこんな力が出たものだと不思議です。兵隊さんの加勢をもらって、ようやく元の場所に置くことが出来ました。このことは一生忘れられない思い出です。
 外に出ますとワァッという叫び声が聞こえてきます。ガソリンの臭いが充満し、黒い煙、赤い炎、地獄絵図の様で、この世の終わりかと思いました。
 焼けた庄内小の校舎には、食糧がいっぱいつめこまれていました。
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