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わが青春の思い出

第1話
○月○日 はれ
 今日は登校したら皆大型トラックに乗せられて、ゆらゆらゆれて着いた所は新田原飛行場。いつも歩いてばかりなので遠足みたいにはしゃいで!!
 降りて早速作業開始、飛行機のカモフラージュだった。
 小高い山を削って飛行機をすっぽりはめてその上に近くの山から切って来た木の枝などをのせる。こんな事をしてもすぐわかるのにと思うけど命令だから仕方ない。みんな汗だくになって枝運びをした。

〇月〇日 くもり
 朝、空襲警報が鳴らない時は登校しなければならないので登校し、校門の前を掃除していたら突然敵機来襲。ポカンポカン爆弾を落しだした。
 ものすごい轟音にびっくりして友と2人あわてふためいて、どうして走ったかわからない。気が付いたら天満宮の防空壕へ入っていた。
 それはすごい音で耳をふさぎ丸くなってふるえていた。しばらくすると静かになったけど、もう外は火の地獄ではと思い恐る恐る出て見たら、何のことはない。
 後でわかった事だけどあっちこっちの田んぼの真中の大きな穴が爆弾の跡だとわかった。

○月○日 はれのちくもり
 学校から帰ってみると出征している従兄が戦地へ行く前のひととき、休暇で帰っており、私を映画に誘いに来ていた。私は「学校で禁止されているから」と断ると、ひどく淋しそうにするので、母のすすめもあり散歩だけにした。
 次の日、早速上級生に呼出しをくった。私は「行かない」で通したけど。
 その後幾日もせず、従兄の戦死の報が届いた。
 こんな事だったらリンチにあっても行けば良かったと、今更口惜しくてならない。


第2話
 あれは太平洋戦争の終盤の少し前だったであろうか。

 私の通っていた県立高鍋高等女学校の校舎は、言わば内地の野戦病院と化し、戦地から送られてくる傷病兵の病棟となった。教室に毛布を敷き、その上にごろごろと寝かされ精気のない顔々。

 私達は勉強どころではない。兵士達のシャツの繕いをさせられた。
 白木綿のシャツのほころびにミシンをかけると、プチプチと音がする。よく見ると、卵、そしてうようよと虱ではないか。声も出ず放り投げたが、山のような洗濯物を見るとこれもお国の兵士のためと思い、気持ちを押し殺してプチプチ縫ってゆく。家に帰ったら、母が着ていた物みんな脱がして熱湯をかけた。

 朝礼の時である。その時の校舎は玄関から真っすぐ大廊下が通っていて、中央から運動場へ下りる様になっていた。中央に指揮台があって、それを挟むように両側に足がまたげる位に長く穴を掘って、ムシロで囲って便所の代わりになっていた。
 ある日私たちは整列して先生のお話を聞いていた時の事である。
 教室からよろよろと降りてきた兵士が便所へ向かう時、足もとにたらたらと便が流れているではないか。「アッ」と息をのみ、皆顔を見合わせるだけで一言も出ない。
 当人は恥も外聞もなく、苦しみと痛みに耐えて居られた。足洗い場で飯盒を洗い、スコップでご飯をすくっていた時代だから、今思えばあれは疫痢だったのではなかろうか。

 40幾年も経つと、まぼろしのようだが、今、目をつぶるといろいろと書き尽くせない程戦争の傷跡は残っている。
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