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南昌作戦に参加して

 昭和13年10月4日、「召集令状です」と、役場の方が赤紙を持って来た。
 くる物が来たか、と一時茫然とした。

 中国戦線がなかなか大変らしい事はラジオや新聞で察していたので、日本男子として一応の覚悟はしていたものの、家には、妻と老母と、5才、3才、1才の幼児3人、全くの女子供の百姓家である。
 晩秋蚕の上蔟期(じょうぞくき)で、家の中は寝る所まで蚕の棚をつくり、繭を作る前の蚕が入れてある。

 召集令状は、「10月10日、都城歩兵第23連隊に入隊すべし」とある。一週間後だ。
 これはどうしたものかと思案したが自分も妻も母も一言も口がきけない。どうするかといってもどうする術もない。
 「あとの事は心配するな」と励まされても、あとの事は、なるようにしかならない。頼みは妻のみである。母は当時68歳、年来の神経痛で腰も曲がっている。その体で今までは無理して手伝ってくれた。

 10月10日、陸軍歩兵二等兵として、破れて当て布の方が多い作業服と、右と左の全く違った軍靴を支給された。
 中支戦線で多くの兵力を失った軍は、容赦なく臨時召集を行ない、寸秒も惜しんだ強訓練を施した。そして2カ月の訓練のあと、陸軍歩兵一等兵の肩章をつけた新品の軍装で征途についた。

 南昌(なんしょう)攻撃戦を予定していた第106師団に編入され、新屋柯(しんやか)に到着、同所警備につく。
 全く新品の老兵は、留守家族の事を心に、死地に勤務する事になったのである。訓練も全く不充分の員数合わせの兵で名のみの補充兵である。
 しかしここは、毎日弾のとび交う戦地である。戦意は誰にも劣らないつもりでも、さて戦争ができるものか。待てよ、隊長の命令通りに行動すればよいのだ。ただそれだけだと覚悟したら、一銭の金の事から心配していた我が家にくらべれば、兵隊ってのん気でよいなと思い直す事にした。

 南昌攻撃で多くの犠牲を出した我が軍も、新兵の補充で陣容が整ったので攻撃作戦に入り、警備地新屋柯(しんやか)より徳安(とくあん)西方の修水河(しゅうすいが)沿線に集結した。

 野砲隊、渡河の鉄舟をこぐ工兵隊、歩兵部隊等一斉に流域に集結し、3月20日、薄暮の中で先づ一斉に砲を開いた。
 約一時間。敵陣がひるんだと見て歩兵の渡河となる。工兵隊の鉄舟で河を次々に渡り、対岸の広い川原を走る。軽機班の自分らは味方の援護射撃をしながら前進する。

 沈黙したかに見えた敵陣から、猛然と反撃がくる。右や左からやられたという声が聞こえる。そのうち右大腿部にガーンと敵弾がきた。間をおかず左手首をやられ左手がずり下がった。前進だと立ち上がったら、左大腿をブスッとやられてしまった。

 とうとうやられてしまった。

 引き返してきた戦友に助けられて、再び修水河を工兵の舟で渡り、工兵の方に野砲隊の詰所に運んでもらった。その間も意識があったのか途絶えたりしたのか判らない。
 砲兵詰所で仮包帯をしてもらい、衛生隊に連絡して頂き、仮包帯所で軍医さんに手術をしてもらう。水牛小屋の藁の上で、それでも完全な手術がしてあると、後日南京陸軍病院の軍医から言われた。

 翌日、水牛小屋の病院「仮包帯所」は早朝に前線に向かい移動し、自分達はトラック隊によって後送された。道路が悪くトラックのエンコが続き、それでも九江(きゅうこう)の野戦病院に収容された。
 受傷した時からそれまで傷が痛いとは思わなかったと思う。しかし、九江野戦病院で手厚い看護をうけて、毎日傷が痛くてやり切れなかった。

 捜索に来た戦友が、「四中隊が全滅して、中隊長も戦死された。お前は助かって良かったよ。」と言ってくれたが、それまで会って何かと面倒を見てくれた多くの戦友の名前を一人も覚えていない。
 精神が錯乱していたとしか思えない。

 九江から南京陸軍病院に後送され、続いて小倉、熊本、都城各陸軍病院に転送され、昭和15年3月20日、兵役免除除隊。
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