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私の飢餓戦記(ウェーキ島)

 昭和16年2月、私は旧満州海拉爾(ハイラル)の戦車292部隊に入隊し、当時ソ連を仮想敵国として、冬は酷寒零下4、50余度、夏は猛暑の草いきれの大草原での3年間、猛訓練に明け暮れていたが、あの太平洋戦争勃発で、緒戦の戦果は束の間、占領していた南方の島々は次々と、連合軍に奪回されている戦況下、わが戦車隊にも動員降り、昭和18年12月初め、2つに分かれ、我々は軽戦車18両、トラック15台の編成で、12月7日海拉爾駅を出発、釜山(プサン)経由で宇品(ウジナ)に寄港、輸送船「赤城丸」に乗船、12月23日出港したが、当時は南方に向かう船団の多くは敵の餌食となっていて、我々も果たして目的地まで無事着くかと懸念を抱いていたが、神仏の加護か奇しくも19年元旦、初日の出を拝すべく、艦上に集まっていた時、遙か前方に白く浮いた「ウェーキ島」が目に入った。

 これがこれから先、我々が当然ながら敵と戦うのは勿論だが、飢えとも闘わねばならぬとは、神ならぬ身の知る由もなかった。

 とにかく陸揚げを急ぎ、無事終わり配置につき、翌日からは連日陣地構築、壕掘り等で明け暮れた。ようやく慣れた2ヶ月後、一番心配されていた食糧不足が迫ってきた。
 2分の1から3分の1、5分の1と、4月、5月ともなれば栄養失調患者も出てきて、6月には急にやせこけ、あの世行きとなった。

 この島は、昭和16年12月に海軍部隊が占領して以来守備していたが、米軍の反攻撃で、島のあらゆる施設はほとんど壊滅され、その後輸送路も絶たれ、自活の道しかなかった。
 しかし、珊瑚礁の島で、果樹類は勿論、草や木の葉も唯食える草「スベリユ」1種類しかなく、他に「ねずみ」「トカゲ」ぐらいの物であった。終わりには食い絶した程、でも幸いな事に、島には幾種もの海鳥が住み、これを手製のゴム銃で射落とし、また海の資源、魚が多く、米軍の爆撃で被爆した多くの魚が浮き、それを捕らえ栄養源とした。
 この鳥や魚を多く食った者程、生き延びたのである。

 話は前後するが、上陸して初爆撃体験は1月31日の夜であったが、初めて戦地にきた実感が湧いた。その後週に1回ぐらい、定期的に襲来していたが、5月24,25日の、米機動部隊の来襲には度肝を抜かれた。一列横体に十数隻の艦から撃ち出す艦砲の凄さ、そして、グラマンの波状攻撃、この反復攻撃で陣地の多くは壊滅的な打撃を受けた。
 この25日に私も砲弾の破片で左足を負傷し「熱帯潰瘍」となり、医薬もない治療では、化膿してぶつぶつ吹き出す青白い、膿を拭き取るのが関の山で、針でチクチク指す様な痛さ、悪臭は今思い出しても嫌な思いがする。

 こんな戦況下、6,7,8月が一番多くの死者が出た。
 痩せこけ、藁布団に横たわり、「飯が食いたい、腹一杯食いたい」と、うわ言のように消えていき、あの世へと旅立つのだった。
 この遺体も翌日、近くの共同墓地に埋葬していたが、死体を埋める穴を掘るにも4,5人交代でようやく死体が埋まる程度しか掘れず、明日は我が身とも思いつつ掘る手も遅々として進まなかった。

 この頃になると、ほとんどの者は体重は10圈■隠記圓噺困蝓⊇戦前には私も61圓ら39圓泙罵遒舛討い董△泙襪覇阿がい骨の姿であった。
 月夜に小用に行き、木陰から急に出てきた戦友を見て、互いに驚く程で笑えぬ現状であった。

 昭和18年の末頃だったか、最後の非常食糧として、玄米が1日に小マッチ箱1つ、そして乾パンが6人に1袋の配給が3週程で最後となり、後は鳥や魚で命をつなぎ止めたのである。
 こんな日々が続いていたが、島でもある一部のお偉い方は丸々と肥えていて、勤務にも就けぬ弱者は1日でも早く死ね、との処置も取られていた。
 「国のお偉いさんよ、何を考えているのか。一度でもこの惨状を来て見よ」と大声で叫びたい気持ちもあった程だ。こんな状況下、食を求めての毎日が続き、「戦争とは一体何なのか」と疑念を持つ心もないでもなかった。

 そして来るべき時が来て終わった。
 日本の全面降伏で終戦を告げたが、我々ウェーキ島守備隊、5200余名将兵の中、3200余の死者を出したが、9月初め米軍の上陸により捕虜となり、3回引き揚げた中で割と健康な者が最後に300程、私もその中の一人で、無事5年振り懐かしき故国の土を踏み、今は豊かな生活に甘んじているが、日本の勝利を信じて南海の孤島に散華した多くの戦友に対し、改めて心から冥福を祈りたい。
 そして2度とこんな悲惨な無益な戦争をこの地球上から無くする事を、全世界に「大声」で、届けと叫びたい。
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