従軍看護婦のみた戦争
私の少女時代は、軍国主義教育の中で天皇に忠義をつくす事、それが最高の親孝行であると教わりました。
女の子でもお国の為になりたいと思い、日本赤十字の従軍看護婦の道を選び、昭和18年8月、17才でピンク色の召集令状を受け、旧満洲東安(とうあん)第一陸軍病院に配属されました。
それから2年を経過した昭和20年8月8日、ソ連軍の攻撃が始まり陸軍病院も後方に下がることを決め、私たち看護婦は軽症患者と共に東安駅に向いました。駅は突然のことでごった返していました。
駅では将校らしき人が威張って、「これは軍の汽車だから一般民間人は乗るな」とどなっている声も聞こえました。その時「私は軍で良かった」と思ったことを、今でも恥ずかしく胸をえぐられるように思います。
この列車はしばらくして発車しましたが、数時間後には黒台(こくだい)という所でソ連軍機に爆撃され、動かなくなりバラバラに行軍することになったのです。汽車から降りた周りには、空襲によっておびただしい負傷者が転がった様になっており、呆然となりました。
「看護婦さん、助けて!」と息絶え絶えの声、振り向くと胸部から腹部がえぐられる様な多量の出血、機銃掃射の直撃の様でした。また、あちこちでは倒れてぐったりなっている母親の手をひっぱって「お母さん早く早く」と4才前後の女の子が泣き叫んでいる姿、阿鼻叫喚の地獄絵とはこの様な状況を言うのでしょうか。
地獄は罪を犯した人が苦しむ所と言いますが、罪もないお国のためにと旧満洲に行った女や子供たちのこの姿はどうしたことでしょう。
いくら看護婦でも、防空頭巾しかもたない私たちにはどうしようもありませんでした。
その後も私たちはあちらこちら逃げまわり、まごついているとき敵の戦車に激しい攻撃を受けました。
敵前に恥をさらすな、と教育を受けていた私たちは窪地に4名集まり、お互いに肩を抱き合って生命を絶とうとした時、誰ともなく低い声で「海ゆかばみづく屍(しかばね) 山ゆかば草むす屍(しかばね) 大君(おおきみ)の辺(ほとり)にこそ死なめ かえりみはせず」と歌っていました。
しかし、19才の私たちには手榴弾のピンを抜く勇気がなく、敵の弾が私たちに当たれば皆一緒に爆死ができると考えていた時、それを見た兵隊さんが「あんたたちは死んではいけない、上の山に逃げなさい」と声をかけてくれたのです。
それから、逃げてもいいんだと思い、あてもない広野(こうや)をさまよい、川を泳ぎ、幾度か死ぬような目に逢いながらも生き残ることができ、8月18日に終戦を知ったのです。
血と泥汚れで誰なのかわからない状態で、病院に収容されました。
戦後、旧満洲の関東軍司令部の家族がいち早く情報を知り、日本に帰ったことを聞きました。
許せるものではありません。
戦場で犠牲になった民間人は、日本に帰っても何の補償もなく、放り出された子供たちは、50年の歳月が流れてあたかも平和の日々が続くような幻覚さえあります。
戦地で銃弾をくぐるのは父であり、夫であり、愛する人です。一般の民間人や子供まで巻き添えになります。
戦争を仕掛ける人は戦地には行きません。この事だけは後世にしっかりと伝えたいと思います。