命を謝謝
今、私は生きています。人はそれぞれにこの世に生まれ、その生涯を過ごしてから一生を終わるのです。
私も今までの65年間には何回も生命の危機がありました。私の命の恩人は、それは全く見知らぬ他民族の方でした。
終戦の次の年の春、私が16歳の時、中国大連、寒い冬を何とか兄に甘えて養ってもらっていました。
完全に食糧事情がお手上げになり、私は一人で生きてみようとの固い意思で家を出ました。飲食店の残飯などをあさっていました。歩きながらブルブル震える足、あと何日かの寿命しかないのかなと思っていました。飲み込む唾も出ない、餓死寸前の頃でした。
私の人生では最悪、最低の時でした。
その時、一人の中国の人が「これを食べなさい」と何かをくださいました。「謝謝(シェイシェイ)」と言いながら、むしゃぶりつきました。
後日この事を何万回となく思い出しました。
それを食べ終わり一息ついた時、「父親(フーチン)は」、私は頭を横に振りました。「母親(ムーチン)は」、また横に振りました。「食べ物があるから家に行こう」と言いました。
私は涙が溢れ、その人に抱きつきました。その人の大きな手は、5年前召集で南方へ行った父の手のようでした。
「父ちゃーん父ちゃーん」とワンワン泣きました。彼は私の肩に当てた手に力を入れ、撫でてくださいました。それから荷馬車に乗せられ、遠い山奥の家に行きました。
奥さんは、そこの子供と同じ椅子に座らせ、食事を勧めてくださいました。汚れ痩せこけた見苦しい日本人の私を、自分の子供と同じように食べさせてくださいました。この優しさは、忘れかけていた母親の温かさを感じさせ、嬉しくて泣きじゃくり、涙を止めることができませんでした。
その後、そこのお父さんは、「よしと言うまで外に出るな、なるべく人に見られるな、他の人とは話をするな」と言われました。私もお母さんの手伝いなどをしました。
5カ月後、日本人が引き揚げるらしいとの噂が流れてきました。その時、今帰らないと帰れなくなるからと、支度してくださいました。私はこの人たちのお陰ですっかり元の体に戻っていました。本当に有難いことです。
しかし残念なことに、20年くらいして起きた文化大革命で、私を田舎に連れてきて養ってくださった中国の人の長男が、日本人の子供を助けたことが分かり、1ヶ月位牢屋に入れられ、顔の形が変わるくらい、叩かれたそうです。
大連の家にお礼に伺いましたが、長男・次男とも亡くなっておられ、当時7歳の娘さんには会うことができませんでしたが、今でも私のことを松下(スウンシャー)のお兄さんと言ってくれています。