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沖縄の皆様へ

私の戦争体験
 私が戦争を体験したのは、国民学校3年生。当時10才ぐらいだったと思う。
 それは昭和19年から昭和20年の春の事だと記憶している。家族で朝の食事中の出来事である。上空で、飛行機の爆音が激しくなり、戸外に出てみると、上空では戦闘機の空中演習かに思われたが。本当の空中戦であった。
 よく見ると、翼に星のマークと日の丸の戦闘機が、空中戦の最中であった。大人たちの話だと、米軍の艦載機が宮崎、都農の上空にも来るようになった。もう米軍が私たちのすぐそばまで来たのだ、自分たちも命が危なくなった、とのことだった。

沖縄の人達の疎開
 それは、私が思ってもいなかった出来事の一つである。その中で、今でも心の中に深く残っている事を書いてみる。

 昭和19年8月末か、初秋の頃だったと思う。
 大人たちの話だと、沖縄は危なくなったので、子供や女性、老人は、本土の私たちの所に疎開して来るとの事だった。私の父母もリヤカーや荷車を引いて、確か都農駅だったと思われるが、その人たちを迎えに行ったと記憶している。
 その中に、私と同じ学年の幸明君がいた。それが、彼との出会いである。
 同じ学校で学ぶことになり、そのころから毎日のように、サイレンや鐘が鳴り、敵機の来襲を知らせ、勉強することよりも隠れたり、逃げたりすることが多くなった。食べ物や衣類も少なくなり、皆いつも空腹であった。
 そのとき、幸明君と逃げ込んだのが、じゃが芋畑だった。二人で芋を掘って食べて見ようとしたものの、えぐくて、食べられなかった。その先には落花生の畑があり、そこまで這って行って、今度はその豆を抜いて食べると、とても甘くて美味しかったのである。
 そのとき、2人で「もう日本は米国に負けるね」とささやき、涙を浮かべて泣いたのが昨日のことのようである。そんなことが1年くらい続いて、当時、和田川や朝草の演習場で遊んだことは、束の間の夢のような気がする。

 戦争も終わって、幸明君は沖縄へと引き揚げて行った。見送りに私は行かなかった。戦争に負けた悔しさと、彼と別れるつらさで、心の中は空っぽになり、歩き出す気力さえ無くしてしまっていたのである。

沖縄の人達とのふれあい
 そんな激しい状況の中で、心温まったのは赤ん坊の誕生であった。疎開者の中のお母さんに、子供が産まれたのだ。
 沖縄の習慣では、誕生のお祝いにお寿司を作って皆に振る舞われるらしく、私も学校からの帰り、幸明君に呼び止められ立ち寄ってみると、元気そうな赤ちゃんの姿があった。そばに大きな寿司桶があり、中に入った子供は手にあまるぐらいの、大きな寿司のおにぎりを1つもらっていた。
 夢中で半分ほど食べ、ふとその寿司桶の事を思い出し、おにぎりが喉につかえた。あの桶は確か洗濯をしたり、赤ちゃんにお湯を使うときのタライではなかったかと思って、ついに残りの半分を畑の中にこっそり捨ててしまった。
 けれど、お腹は空いている。皆が美味しそうに食べていたのだから、全部食べてしまえば良かったと思った。
50年経った今でも、その時の事が頭から離れない。

30年後の再会
 すべて、遠い夢の出来事のように思われる。

 平和になって、そんな出来事も少しずつ忘れかけていた折、戦争で疎開されていた沖縄の人たちが都農を訪れるという知らせを聴き、私は家内と共に町へ飛んで行った。その中に、別れた幸明君が居るとのことだった。
 会場に行くと、横顔ですぐに彼だと分かった。彼は私のことを覚えていないのではと、不安に思ったが、じゃが芋や落花生の話をすると、すぐに思い出して、2人して子供の頃に戻ったような気持ちになった。
 その晩は、語り明かした。それから、昔遊んだ和田川や朝草の演習場へ行き、あの時の悔しかった事や楽しかった事を思い出し、いつまでも話が尽きなかった。

 最後になったが、あの戦争・戦後の中で私たちは沖縄の皆さんに何にもしてあげられなくてごめんなさい。
 でも、私たちにも何も無かったのだ。せめて、皆さんと仲良くして、皆で助け合って一つになって、生き残るのだ、そのことが、一番の支えになるのだと思っていた。
 50数年過ぎた今でも、その気持ちに変わりはない。
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