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子供を生きる支えに

 明治生まれの私にとって、大正の末期から昭和の始めの頃は、華やかな娘時代でした。
 小林牧場の桜が絶頂に美しい頃は、花の名所でしたので大変な人出でした。夜桜に集う若者の群、バイオリンを奏でる若い学生、君恋しが流行したのもあの頃でした。ポプラの並木や桜の下に陣取って和服姿の美しい若者達の楽しそうな語らい、手作りの弁当をひろげての花見風景は、忘れられない青春の一コマです。

 心豊かな良き時代でした。
 その頃私は銀行に務めておりました。兵隊華やかな頃で、私も海軍だった主人と結婚し、最初に行った所は呉でした。それから、佐世保、横須賀、呉、佐世保と転勤しながらの10年間、2人の子供にも恵まれて、幸せな生活だったと思います。
 入港・出港のくり返しで、実際は3年位の短い結婚生活でした。

 佐世保にいた時でした。「艦が別府に入港するから、子供をつれて遊びに来ないか」と言う便りがきました。1月末の寒い時でした。
 2人の子供に洋服を新調し、久し振りにお父さんに会えるというので、子供達も喜んで別府へ向ったのでしたが、駅に迎えに来ている筈の主人の姿がありません。「お父さんはきっと隠れているのよ」と、待合室をぐるぐるまわりましたが、姿がありません。旅館に行ってみますと、とても気の毒そうに差し出されたのは号外でした。

 「伊63潜水艦、今朝未明僚艦と衝突。豊後水道に於いて沈没す」

 あの時の宿の主人の気の毒そうな顔を今でもはっきり思い出します。
 楽しみの絶頂から悲しみのどん底へ。
 でもその時はまだ死んでいるとは思っていませんでした。2人の子供の手をしっかり握って、すごすごと引き返すあの時の車中で、混乱した心を支えてくれたのは2人の子供でした。新調してやった赤いオーバーがいつまでもあの日の事を思い出させるのでした。冷たい雪が降っていました。
 あの潜水艦は最も新しい型だから1週間は大丈夫だと、まわりの人々の慰めの言葉も空しく、昭和14年2月2日が悲しい命日となりました。

 艦は1年後に引揚げられました。海水に1年間沈んでいた軍服が返ってきました。81名が海の藻屑と消えたのでした。
 当時長男5才、長女2才、私が29才でした。

 思えば最後に入港した時、虫の知らせとでも言うのでしょうか。夜くつろいでいますと、天国から、とても美しい天人が主人に手招きするのです。何となくソワソワして行きたそうにする主人でした。妙に心に引っかかる夢でしたが、それから間もなくの出来事でした。
 生前主人が、「海で沈没して死ぬのが一番苦しい死に方だよ」と話してくれた事を思い出し、同じ運命をたどるなど、夢にも思っていませんでしたのに。太平洋戦争始まる直前の猛訓練中の惨事でした。

 間もなく戦争は始まり、私達の周囲も戦争一色に塗りつぶされてしまいました。
 B29の爆音におびえた事も幾度かありました。竹槍を持って女も行かねばならないと、悲愴な覚悟をした事もありました。金銀銅みんなお国の為にと出しました。形見の指輪も残っていません。軒並に出征の日の丸の旗が増え、みんな厳しい生活に耐えねばなりませんでした。
 都会から引揚げてくる人が多く、みんな大家族になりました。私の家も14、5人の家族だったと思います。
 その頃私は若い頃勤めた経験がありましたので、農協へ勤める様になりました。子供達も小学校、中学校、高校と進学し、幸い成績が良かったので私の心を満たしてくれました。ただ残念だったのは、長男を大学へ進学させてやれなかったのが一生私の心に残る侮いでした。

 恩給をもらえる様になったのは、昭和27年からだったと思います。みんなお金に困りました。私も主人の仕立てたばかりの大島の着物を売って、子供に自転車を買ってやりました。着物をだれに買ってもらったのか記憶にありません。形見だったのにと今残念に思います。
 士官学校を出て間もなく戦地に行った主人の弟も、ニューギニアの土となりました。
 明治専門学校を出るとすぐ戦地に行った私の弟も、ミンダナオの土と消えました。卒業論文を書く時、私も手伝ってやった時の希望に満ちた顔が忘れられません。
 夫が死んでから、とてもやさしく慰めてくれ、子供達を可愛がってくれた若い2人の弟が、かわいそうでなりません。
 長い長い道でした。すでに50才を過ぎた2人の子供も無事成長してくれました。

 昭和63年は主人の五十回忌に当ります時、幸いにも佐世保海軍墓地で、伊63潜水艦名板除幕と五十回忌の法要が営まれましたので、子供2人と孫の4人で佐世保に行きました。
 同じ運命を辿った人達と50年振りの再会でした。走馬燈の様に思い出が蘇って感無量でした。来年もまたこの記念碑の前にお参りをしようと心に誓いながら、二度とあの悲惨な戦争がありません様にと。
 これは私達遺族の心からの叫びです。

 激動の昭和は終り、新しい平成の御代になりました。
 けわしいいばらの道を歩き続けて幾十年余、やっとたどりついた幸せです。戦争を知らない子や孫に、私達の経験した苦しみを書き残して、決して戦禍に巻きこまれる事のない様にと。
 心からの祈りです。
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