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夫の出征

 振り返れば主人に召集が来たのは、昭和13年8月25日でした。
 この朝、私共は早く畑に出てゆき、私は主人に馬耕(ばこう)の使い方を教わり、初めて牛の手綱を取り耕し始めました。なかなか思うようにならず、すきが外れたり、牛が横に行ってしまったりしながらも、何とか少しずつ前進する様になりました。お昼近くになり仕事も終りましたので、帰ろうとしていたら、向うから自転車に乗って役場から召集令状を持って来られたのでした。

 かねて覚悟はしていましたが、その時は仕事の事しか頭になかったのでとてもびっくりしました。それから5日間は人の出入りが激しく、いよいよ主人は出征するのだと実感がわいてくるのでした。
 そして13年9月1日出征しました。

 中心を失ってしまった、家族だけの朝を迎え、朝食の時に主人の座る場所があいているのが淋しく、70才をすぎた父母と、長男4才、次男3才、三男生後5ヶ月の乳飲み子をかかえて、これから先、どうしたら良いのだろうと悩みました。
 いつまでもこんな気持ではいけないと、勇気を出して、義母に子供の面倒を見てもらい、父にも仕事を手伝ってもらって、慣れない仕事を覚えようと一生懸命働きました。
 人が替わると馬も牛もなかなか言う事をきいてくれません。甘藷の中耕(ちゅうこう)に培土機(ばいどき)を使っての作業は、すごく重たくて、持出しが大変でした。馬が物音に驚き急に飛び出して後足をバンバン上げてはねた時、体がぶるぶる震えながらも手綱を取った、あの怖かった事も忘れられません。

 ところが翌年の7月、とても悲しい事がありました。長男の突然の死でした。ほんとうにつらい思いでした。
 葬式の朝は次の子供がまた悪くなりましたが、親戚や村の人達が手をつくして下さったおかげで幸い良くなりましたが、死んだ長男のしぐさの一つ一つが思い出され、こみあげてくる涙をどうする事もできませんでした。

 明けて15年4月、主人は除隊となり一時帰りましたが、1年4ヶ月目に再び出征したのでした。
 その頃から戦争はだんだん激しくなり、私達農家が食料増産するにも肥料はなく、野山から草を刈ってきては牛馬に踏ませて堆肥を作っての増産に一生懸命でした。供出が厳しく、自分で作っても自由には食べられませんでした。全部供出して配給所から買って食べた事もありました。

 今は機械化された農業で仕事もとても楽になりました。食べる物・着る物すべて豊富で、昔想像もしなかった世の中になりました。私達遺族も年金等も頂きほんとうに有難いと思っております。長い間苦労してきましたが、子供達も無事成長し、孫達にかこまれて幸せな日々を過ごしております。
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