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がん張り抜いた長い道

 私が結婚して来たのは昭和16年5月21日でした。
 1ヶ月経った6月21日に召集が来たのです。教育召集だったのでしょう。4ヶ月目に帰って来ましたが、その日から楽しいはずの新婚生活のはずが、いつくるか分からない召集令状におびえる様な恐怖の毎日でした。7ヶ月の間、楽しかった思い出がありません。

 そして再び召集が来たのが昭和17年5月2日でした。
 その時私は妊娠5ヶ月でした。出産の日を楽しみに、主人からの便りを待つ毎日でした。久し振りに来た葉書には身重の私を案じてのやさしい言葉を涙ながらに読んだものでした。

 都城にいましたので、主人の母と面会に行った日の事が忘れられません。
 食べ物を持って行けないので、着物を着て、帯のポテの中にキャラメル等を隠して持って行きました。面会を申し込んで2時間位待っても何の事もありませんので半分あきらめていた時、3時間位経って、やっと主人が来ました。
 主人は、面会もない、このまま今日は中国へ立つのか、と思いボンヤリして時間を過していたと言うのです。面会に来ている事も伝わっていませんでした。話したい事がいっぱいありましたが・・・。ただ涙で言葉にならず、主人も「元気で帰ってくるよ」の一言、「家の事は心配いりません」と、これが一生の別れの言葉となりました。
 5時の汽車で発つと聞いて私達も同じ汽車に乗る事にして、主人の父には電話で知らせました。兵隊さんは前の3輌位でしたので、私は一番後の車にのりました。
 小林に着くなり身重も考えず死にものぐるいで前の車両まで走りました。「元気でね」としっかり手を握り合った手を痛々しく引き放し、主人は征ってしまいました。これが一生の別れとなるなど思いもしなかった事でした。
 お父さんは小林から乗りこんで京町まで話す事を許され、色々話したと言っておりました。その父も終戦後帰らぬ人となってしまいました。

 家は木材・木炭・しいたけ等やって、農業も少しやっていました。私は看護婦をしていましたので家の仕事に慣れず、それはそれは苦労しました。牛使いのけいこもしましたし、こやしたんごも担ぎました。籾一斗持てなかった私が四斗入りを持てるようになりました。
 戦場でつらい思いをしているであろう主人の事を思えばこその底力だったと思います。ただ、主人が必ず元気で帰ってくれるであろうと信じて強く強く生きて来たのでしたが・・・。

 昭和21年3月24日、母と唐芋の床出しをしている所へ戦死の公報がきたのです。
 親子抱き合ってただ泣きました。3才になった娘を一目見せてあげたかったのです。ただそれだけをどんなに楽しみにしていた事でしょう。娘の顔を知らないで征った主人、父親の顔を知らない娘、悲しい戦争の悲劇でした。その時私は26才、娘3才でした。
 遺骨が10月5日に帰る事になり、娘の洋服がなく私の袷の裏地を取ってワンピースを作って着せてやりました。
 役場までお骨を迎えに行くのに、行きも帰りも歩いてでした。娘は何にも分らず、人が多いのを喜んでいる姿に胸が痛みました。涙をこらえて遺骨を抱いて帰りました。
 娘は「お父さんを見せて」と一生懸命せがむので、遺骨の箱を開けますと、娘は「なんだ板か」と言って飛びまわっていました。親族の人達も何にも言えず、ただ涙ぐむばかりでした。
 主人の最後の葉書に「家はスイカの如く、外より中が美しく」と書いてあったのが心に深く残っております。

 現在孫も22才と20才と成長しましたし、恩給も頂き安心した暮しができる様になりました。朝夕に仏前に手を合わせ、亡き主人に、「御苦労様でした。ありがとうございます。貴男の分迄長生きさせて頂きます。」と今日のしあわせを感謝しております。
 こんな苦しい大きな庇跡を残す戦争が、未来永久にないようにお祈りいたします。
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