| [23] 都城市中央地区 | <碑 名> 慰霊碑
<所在地> 都城市小松原町 神柱宮西側公園内
<所有者> 都城市奉賛会
<建立時期> 昭和9年8月13日(陸軍墓地) 昭和30年8月
<合祀柱数> 3,035柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月中旬 |
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| [31] 都城市山田町 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市山田町山田3881 山田総合支所横
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和30年4月30日
<合祀柱数> 515柱
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| [35] 満州事変戦没者合祀碑 | <碑 名> 満州事変戦没者合祀碑
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和9年8月13日
<来 歴> 満州事変の戦没者を合祀するために建立された碑です。
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課 電話:0986−23−2980 |
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| [36] 戦傷病者の碑 | <碑 名> 戦傷病者の碑
<所在地> 都城市都島町380(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和55年1月
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課内 電話:0986−23−2980 |
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| [37] 軍馬建立之碑 | <碑 名> 軍馬建立之碑
<来 歴> 日中戦争から太平洋戦争にかけて日本全域から動員され、徴用従軍した軍馬は約10万頭と言われていますが、戦死・病死した軍馬は一頭も故郷へ還ることが出来ませんでした。 そこで、日中戦争並びに太平洋戦争に動員された軍馬の慰霊並びに占領軍により徴傭された軍馬の顕彰を行うため、終戦40周年の記念事業として、軍馬慰霊顕彰碑が建立されました。 (陸軍墓地内には、この他にも昭和10年と昭和18年に建立された軍馬記念碑があります)
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和60年11月
<詳細の問い合わせ先> 宮崎県軍馬顕彰会
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| [38] 陸軍墓地納骨堂 | <碑 名> 陸軍墓地納骨堂
<来 歴> この納骨堂は、旧陸軍第23連隊関係で日中戦争以降の戦没者の分骨を個人ごとに納め、恒久に祭祀する目的で昭和13年にこの地に建立されたものです。 (元々は明治43年に都城へ歩兵第64連隊が配置されたとき、日清・日露戦争で戦没した郷土出身者の遺骨を納めるために現在のホテルハイツ跡地へ建立しましたが、敷地が狭く、参拝が不便であったことから昭和13年に現在の場所へ移りました)
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<合祀柱数> 納骨数:9,395柱 内訳:日中戦争:4,992柱、太平洋戦争:3,718柱、終戦以降:685柱
<詳細の問い合わせ先> 都城市特別攻撃隊戦没者奉賛会(都城市障害福祉課内) |
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| [39] 済南事変戦死者之碑 | <碑 名> 済南事変戦死者之碑
<来 歴> 済南事変の戦死者を合祀するために建立された碑です。
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和4年
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課
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| [47] 日清戦争記念碑、日露戦争記念碑、砲弾型記念碑 | <名 称> 日清戦争記念碑、日露戦争記念碑、砲弾型記念碑
<来歴> これらの碑は、いずれも庄内小学校横に並んで建っている。 日清戦争記念碑は明治29年に建立された。 ほか2碑の建立時期や設立由来は不明。
<痕跡の所在地> 都城市庄内町(庄内小学校横)
<所有者名> 不明 |
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| [25] 都城市庄内地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市庄内町13245−2 庄内児童公園内
<所有者> 都城市庄内地区戦没者遺族協助会
<建立時期> 昭和30年4月16日
<合祀柱数> 566柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月18日 |
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| [27] 都城市中郷地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市安久町5206−1 中郷運動広場横
<所有者> 都城市中郷地区遺族会(中郷地区忠霊塔奉賛会)
<建立時期> 昭和35年11月20日
<合祀柱数> 554柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月25日 |
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