平和祈念資料展示室
戦時下の県民生活
当時の宮崎県民数は約90万人。出征兵士を見送るかたわら、徴用や勤労奉仕に励み、祖国振興隊による開墾作業も行われた。しかし戦争の長期化は、兵員の大量徴集に伴う労働力不足をもたらし、資源、物資も底をつき、農家には供出制度が課せられた。徹底した物資配給制や国債の引受け割り当てなど耐乏生活が日常となり、「欲しがりません勝つまでは」などの標語が叫ばれた。教育の場は軍需工場へとかわり、国民学校の6年生でさえ滑走路造りに従事した。昭和20年には米軍のB29爆撃機や艦載機による空襲も本格的になり、銃後もまた戦場となった。
愛国婦人会たすき
愛国婦人会は明治34年(1901)、傷病兵や遺族保護などを目的に創立され、 歴代の総裁に皇族をむかえ、地方でも土地の名士夫人を会員として、昭和12年末には会員数が338万人に達した。しかし日中戦争がはじまってからは、 愛国婦人会のほかに大日本国防婦人会(昭和7年発足)、大日本連合婦人会 (昭和6年発足)も、軍人援護や遺家族の救護活動、貯蓄奨励や生活の刷新などほぼ同じ活動を行っていた。しかも会の勢力拡張のための摩擦や対立が生じるようになり問題となったため、17年1月27日、3つの婦人会が統合して大日本 婦人会が発足した。この会には20歳以上の夫人が強制加入させられた。
木口の袋
昭和18年(1943)4月、国民学校に入学以降使用していた竹の皮のランドセルが2年時に破れてしまい、この袋に教科書や弁当を入れて通学した。中央の桜のマークが国民学校の生徒を示す。


