平和祈念資料展示室
- 入営・出征
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日中戦争から終戦までの間に、宮崎県内では陸軍に12万人、海軍に3万人が召集された。徴兵で陸軍の歩兵に召集されると、ほとんどの男子(壮丁)は都城の部隊に入営した。海軍では志願制をとっていたが、戦局が厳しくなり人員の損耗率が高くなると、徴兵も行った。県内出身者の大半が佐世保の海兵団に入団し、水兵としての基礎教育を受けた。陸軍の兵士は、中国大陸から南方のブーゲルビル島へ移り、絶望的な戦闘をくり返した。満州に召集された兵士は、戦後、シベリアに抑留された。海軍の兵士は、南太平洋から東南アジアが主戦場となった。昭和20年8月15日終戦、県内の戦没者数は、陸軍が2万8千人、海軍が8千200人であった。
- 軍装品類
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陸軍将校及び海軍士官は軍装備品を自費で購入し、下士官・兵は軍から官給品として支給された。陸海軍が衣服・装具・兵器などを正規の軍用品として採用したとき、「制式」と称し、採用決定の年号をつけて制式名とした。
- 戦時下の県民生活
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当時の宮崎県民数は約90万人。出征兵士を見送るかたわら、徴用や勤労奉仕に励み、祖国振興隊による開墾作業も行われた。しかし戦争の長期化は、兵員の大量徴集に伴う労働力不足をもたらし、資源、物資も底をつき、農家には供出制度が課せられた。徹底した物資配給制や国債の引受け割り当てなど耐乏生活が日常となり、「欲しがりません勝つまでは」などの標語が叫ばれた。教育の場は軍需工場へとかわり、国民学校の6年生でさえ滑走路造りに従事した。昭和20年には米軍のB29爆撃機や艦載機による空襲も本格的になり、銃後もまた戦場となった。
- 戦没者の相貌
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