戦争を体験したひとびと
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防空壕と風呂の中

高鍋町 男性
 昭和20年戦争が激しくなるにつけ、宮崎県下でも空襲を受けるようになってきた。
 夜の10時項だったろうか。ラジオが「今延岡が空襲を受けている」というので外に出てみると、北の空が真赤になっている。私は、「いよいよ近くまで焼かれるようになったか。大変だな。」と思った。
 そうこうするうち3月ともなると艦載機が飛来し、至る所を攻撃し損害を与えるようになってきた。空襲がある度に私達は防空壕へ走らなければならなくなった。
 私の家では隣の家の防空壕に入れて貰っていたが、当時5歳の長男は空襲警報のサイレンが断続して鳴りだすと、母から作ってもらったリュックを背負い隣の家の防空壕へ走りこむのがうまくなっていった。
 また、度重なる防空壕避難を経るうちに、長男は壕の中へ入ると安心するのであろうか、いつしか心地よい寝息きを聞かせるようになっていった。空襲の怖いひととき、我が子の壕へ走り込む姿と壕の中での寝息きは、今でも我が家のなつかしい昔話である。
 我が職場にいて空襲にあったある日のことである。サイレンが鳴ると同時に敵機の爆音がし、やがて頭上で機銃の音がし始めた。私は同僚と共にあわてて防空壕へ一目算、かけこむと同時に戸を閉め息を殺した。敵機の攻撃は私の頭上を何回となくかすめて行われ壕から出ることは出来なかった。
 やがて敵機の爆音がしなくなったので外へ出てみると、黒木さんが藤棚の下に腰かけようとしているところであった。私は深呼吸をし、長かった空襲の終わったのにほっとした。
 そのうち同僚数人も集まり、激しかった空襲の様子、個々人の避難や怖かった思い等を三々五々話し合い、落ちつきを取り戻していった。そのときである。黒木さんが、「河野さんがおらんど、どしたっじゃろかい」と言いだした。私が「河野さーん・・・」と大声で呼ぶが返事がない。「河野さんはやられたっじゃねえどかい」みんな河野さんの安否を気遣い呼び始めた。3度、4度一斉に呼んだときのことである。「おーい、ここじゃ」というかすかな声が返ってきた。
 私達はその声の方へ走った。そして風呂場の近くへ行ってまたみんなで大声で「河野さーん、どこのよおー」と呼びかけた。河野さんからは全く返事がない。近くに倒れてもいない。私はてっきり敵機にやられたと思った。みんなもそう思い心配そうな顔付きで探しだした。
 とそのとき、五右衛門風呂の方向からゴトゴトと音がしてきた。みんなの目がそっちへ向いたとき風呂の蓋が上下に動きだした。そして、手が見え、やがて河野さんの顔が出た。「仕事をしちょつたら防空壕に避難すっとが間に合わんで風呂ん中へとびこんだつよ。えへへ・・・大騒ぎさせちすまんこっじゃった。」と言いながら舌を出し唇をクルクルとなめられる。そして右手で頭をかき廻される。そのしぐさは河野さんの癖であり、それを見たみんなは河野さんの無事を知り、しかも怖かったあとでもユーモアを捨てなかった河野さんに拍手をおくった。
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