戦争を体験したひとびと
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空襲と台風

高鍋町 女性
 第二次大戦中、日本は、食糧の増産・軍需工場の拡充増産・各生産工場拡充に勤労奉仕作業が実施され、国民総動員の名のもとに懸命の努力をしたものである。
 小学校の児童から大学の学生まで学業をやめて勤労奉仕作業に従事した。私は当時農業をしていたが、農作業に学校から生徒が加勢に来てくれて、はじめのうちは仕事もまあ順調に出来ていた。
 戦争が激しくなってきた昭和20年の正月に私は7人目の子供を出産した。当時は食糧も十分なく、乳も思うように出ず育児にも大変困っていた。そのうえ空襲下で、農作業の時も生まれた子供を背負い仕事をしていかねばならなかった。
 空襲警報が発令されると、仕事を止めて防空壕に走りこみ、警報が解除されると壕から出ては再び田植を続けた。このような危険と恐怖・不安の中での農作業は、なかなかはかどらなかった。子供を負って田植えをしたときの苦労・不安は大変なもので今もなおその苦労は忘れられない。
 アメリカの飛行機のグラマンやロッキードが、蚊口地区にある各種の施設を爆撃するために、鴫野の上空を機銃を発射しながら通過した。空襲は昭和20年6月から激しくなった。(当時、日本では飛行機が応戦する力はなくなっていた)
 ある日、空襲警報が発令されると同時に飛行機の爆音がした。私は防空壕に入る間がなく家の片隅に身を寄せて地面に腹ばいになった。その時、自分の頭のすぐ上を機関銃の弾丸が「シュッ」と飛んできた。その弾丸は、雨戸を4枚打ち抜いて転がっていた。生きた心地はしなかった。命を亡くすところであった。
 次の空襲で馬小屋が火災を起こした。空襲が激しいので誰も消火に来てくれず、全部燃えてしまった。悲しさ一杯、ボンヤリ眺めていた。
 8月上旬になり、切原に疎開していた病気の母が永眠した。激しい空襲で、昼間は道路を歩くことは危険であった。家族が手分けして、高鍋町役場・医師の手続きを終り、お寺では書類を渡され、この書類を添えて埋葬するようにとのことであった。夜になって、永眠した母を馬車に乗せ鴫野の墓地まで運んだ。埋葬地では、地区の人が4,5人土葬の穴を掘っていてくれたので告別式を終えることができた。今考えると、誠に哀れな告別式であった。
 いよいよ空襲は毎日となり激しさは増していった。その空襲の合間に農作業をしていた。いつ、上から不意にグラマンがやって来て機銃を浴びせられるかわからない危険とその不安では、仕事も効率は上がるはずはなかった。
 子供の世話・教育から家事・農作業と苦労が多いのに、更に空襲下で働いてきたことを思うと生きているのが不思議なくらいである。
 家族が多かったので食糧不足であった。雑穀・野菜を沢山混ぜて食べていた。ある時はおかゆですませたこともある。いろいろと創意工夫して生きてきた。
 8月15日をもって戦争は終わったが、それからも苦しい生活をせねばならなかった。
 終戦後、激しい台風が九州を襲った。私の家もこの台風でゆれ始めたので、危険を感じみんな防空壕に風雨の中を避難した。と同時に家屋は吹き倒されてしまった。またまた命の助かったことに感謝した。吹き倒された家が鴫野にも4軒、傾いた家は多数という激しい台風であった。倒れた家は、当時物資不足で建てるのに困難があったが、戦後の後始末のために残っていた旧兵士4,5人によって私の家族が住める程度のそれこそ小屋を建ててもらった。感謝しつつ家族で住むようになった。
 しかし、またもや第2回目の激しい台風がやってきた。建ててもらった家は丈夫な家ではなかったので、その激しい台風のために再び家が動きだした。家族全員防空壕に避難しようとしたが、父だけがどうしても応じない。しかし家が相当揺れるので危険を感じ、父を無理やり家から連れ出した。その途端家が吹き倒された。またしても、家族全員無事であった幸運をしみじみと感じたものである。
 思えば、空襲で馬小屋が焼かれ、家屋も2回吹き倒された。このような悲惨で危険な状態から生き抜き、現在健康で老後の生活を送っている。
 子供達7人も健康で夫々家庭を持って楽しく暮らしている。
 初めて経験した戦争の恐怖と悲惨さは今でも忘れることができない。戦争は起こしてはならない、してはならないと身を持って感じ、将来永遠の平和が続く日本であるように祈るものである。
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