戦争を体験したひとびと
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恐かった船路

高鍋町 女性
 台北市の寿小学校に着任したのは昭和17年の4月だった。校舎の玄関に土嚢がうず高く積まれてあったのが印象的だった。つい最近まで多くの兵隊がここで暮していたと聞かされた。この学校にまる2年お世話になったが、この2年間は私の生涯を通じて思い出深いものとなった。戦争の最中に渡台し、見知らぬ土地で親友と2人の生活に親は心配のしどうしだったらしく、帰ってこいの一点ばり、とうとう帰郷することになった。その帰路のおもいでを当時の日記から拾い書きをしてみよう。昭和19年のことになる。
 4月30日 雨
 午前10時43分発の列車で台北を出発し基隆に向かう。涙雨が降る。見送って下さった多くの方々の顔が自分の涙でぼやける。基隆について陸橋が開いたのが午後1時半、橋を渡り船室に落ちつく。6人部屋だった。今日はこのまま基隆泊りだった。
 5月1日も雨
 船も出航しない。不気味な一日。
 5月2日もまた雨
 どうなるのだろう不安がっているとやっと船が動きだした。ドラも鳴らず通報もなく海をみつめて確かめるだけだった。港を離れて暫くすると、見える見える、一隻、二隻とまたたく間に二十隻ぐらいの船が吾等の乗ってる船を囲んでくれた。船団を組むということだそうだ。先頭には駆遂艦がいて先導してくれているとのこと。水兵さんがいっぱい乗っておられる軍艦をみてすっかり安心した反面緊張感も倍加した。
 5月3日 曇
 船はゆっくり進んでいるようだ。「早く門司に着かぬか」とそのことばかりを念ずる。非常訓練があった。防具のつけ方が主である。昼間は友軍機がさかんに哨戒してくれる。これで万一のことがおこれば我が運命だと自分に言いきかせる。
 5月4日 晴
 夕刻より霧が深くなり警笛がさかんに鳴りだした。寒くもなってきた。警笛は深夜になってますます激しくなった。最後の食べ納めなのかバナナが5本ずつ渡った。緊張した時が刻まれる。
 5月6日 晴
 突然耳をつんざく轟音!午前3時前だ。「やられたーッ」と寝台から飛び降り慌てて避難支度をし、隣りの寝台でまだ寝ているおじさんを「警報が鳴っている、ほんものよ」とゆり起す。その間に友は甲板にかけ上り敵艦を確かに見たと恐れおののいていた。「甲板へ出るのではない」とどなられて避難場所に集合する。各船室から皆出てくる。この間ひっきりなしに大砲の音が響く。が船は寸時も停船せず前進している。このあとは船員さんの指揮にすなおに従い行動する。
 突然また警笛が鳴った。慌てて皆して甲板に上る。「死んでも知らぬゾー」と船員さんが大声でどなる。然しこの時ばかりは「ボートに乗って海に飛びこむんだ。私は泳げない。死ぬる」とおもいこんだ私だった。船員さんのどなり声にふっと気づいて甲板から部屋にかけ戻った。あとから考えると群衆心理による行動は船員さんにとっては迷惑そのものだったろう。
 3時半 4時 4時半 やっと空が白みはじめた。
 ああ助かった。船客一同皆してホッとしている。生と死の境の時間はすぎた。泣きたいような悦びだった。このあと皆して不寝番に立つ話、船員さんへの感謝の気持のあらわし方等を協議した。朝食後甲板に上って周囲を見渡すと、水兵さんの乗っていた船が見えない、どうしたのだろう。あとで聞いた話によると、機雷があちこちに仕掛けてあったとか、勿論敵艦も近づいたのだろう、友が見たというのも本当だったらしい。
 5月7日
 門司に着くのは今夕か明日8日だろうと聞かされ今夜もまた心配だと思った。一難去ってまた一難。船は内地圏内にはいっているというものの安心できない。友と2人して歌いおさめになるかもと知っている歌を次々に歌ったものだった。昨夜と同様の不安を感じた一夜だったが、明けて8日やっと門司港に着いた。「内地だ!門司だ!」と歓声があがった。
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