戦争を体験したひとびと
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終戦〜翌年3月までの思い出

高鍋町 男性
 当時(昭和20年8月15日終戦)私は台湾宜蘭(ぎらん)市郡の畜産係長として勤務していた。
 係職員は市担当8名、郡担当4名計12名、内日本人3名その内獣医1名台湾人9名内獣医1名で一般畜産行政を行っていた。内容は1防疫、2養豚の増改良、3馬事の普及、これについては馬10頭を飼育し一般人の乗馬の奨励に当っていた。
 獣医2名は自分と台湾人の「林」氏であった。それに警察業務である屠殺場における豚その他の指導管理をも兼ねていた。8月半ばに入り林獣医が出勤せず問合せたところ行方不明とのこと、それ以来早朝(5時)から自分1人で生体生肉の検査をすることになった。彼は戦時中の不当な取扱いの復讐を恐れたのだろう。
 そんなごたごたの中、員林庄(いんりんしょう)に駐留していた輜重隊から馬20頭を移管された。そこで従来の10頭の厩舎に入れられず放馬したら近くの農家の野菜畑を荒らしてしまった。そこで荒らされた農家の人達が押しかけてきて「この始末をどうしてくれるのか」との申入れがあり、みんなと話し合った。
△この荒らされた畑それに野菜等どうしてくれるのか。
○君達の言分はよくわかるがただどうしてくれるのかでは私としては答えようがない。
△では、どうしろというのか。
○君達自身で荒らされた畑と現在まで育てた野菜等よくしらべて、どれだけの金がかかっているのか明後日まで自分の処にくるよう。
△では明後日調べた損害金を支払ってくれるのだな。
○現在のところ君達も知っているように、日本は、戦争に敗けたので自分の手許には金がないがどうにかして君達の要求通り支払う考えだ。
△では損害額を払ってくれるのだな。
△その時金がないではすまされないからね。
○とにかく君達の損害額がはっきりした上でだ。さき程言ったように明後日まで申し出るよう。
△出来ない時は獣医もそれだけの覚悟があるのだな。
○覚悟しているから君達と話し合っているのだ。
△では明後日又くるからね。
 そして私はこのことを市長・課長に報告し指示を仰ぐべきと思いそれ等の事情を報告した。が「日本政府としての行政行事は8月15日において終業し中国政府からは8月15日に現状のまま管理する旨、言われている。そのようなことは、君自身で判断すべきだ。」とのこと。今まで鷹揚に事を処していた上司とも思えない言葉に一末のはかなさを覚え、「何をか言わん。すべて自分自身で処理してゆくよりほかなし。」といっそう身のひきしまる思いがした。そのうち日本人2名はそれぞれ親元の台北市、台中市へと行き、頼りの台湾人3名も仕事から遠ざかったので残り4名の者と相談し屠殺業者を呼んで馬20頭の処理を頼んだ。「一頭100円ではどうか」とのことで、現金2000円を調達してもらうことにした。
 被害農家の人々はそれぞれ賠償金額を持ち寄って来たが、6名分の合計が1500円となったので馬を売却した金を当て、それでも余裕があるのでほっとした。「それぞれ損害の金額を現金で渡すので領収証を出すように」と伝えた。この事件は屠殺業者の協力で結末がついた。自分としては命がけの賭であったが皆の協力を得て解決した。残り500円は職員4名に分け与えた。
 また4名の職員に「残り10頭の馬も早急に処分したい。また厩舎と放牧地(約400坪余)も処理するから君達で元の地主を調査するよう。」にと指示した。
 ともかく一件が穏やかにすみほっとした。そこで1人身であるから夜長のうさばらしにいつもゆく屋台でほっとした思いで呑んだ。
親父から
「今夜の酒はどうか」と聞かれ
「命が助かったのでほんとうにうまい酒だ」
「そうだろうね。外の人間であったら業者も助けずなぐり殺されたかも。」
「ほんとうだ。親父の言う通りだ。」
「獣医先生がいつも台湾人と日本人の区別なくつきあいをやっていたから業者も助けてくれたのだよね」
と屋台の親父の話。つくづく骨身にしみる思いであった。
 一方官吏・日本人はどうであったろうか。先にいった通り翌年の3月までの給料を一括支給されたので当分の生活には支障ないが家族もちの人達はいつ内地に帰れるのか、それまでの生活を考えると本当に心細い限りであった。
 巷間道路側で家財道具を必死に売却している邦人が軒並に続いている有様、本当に終戦を境に邦人と本島人の生活環境が逆転したのであった。それらの人達を見るにしのびず遠くから家族に幸あれと祈るのみであった。
 そうこうするうち師走に入り一層街中は爆竹の音、大声で商売する者、そうぞうしく正月の近づきを感ずる街並であった。
 先に依頼し調査していた厩舎周辺の元の地主も判明(4名であったと思う)したので「皆で話し合って円満に解決するよう」申したところ皆大変喜んでくれた。
 その後、4名の職員と業者地主等が訪ねて来た。「皆で相談したのだが失礼と思うけれども先生も懐中がとぼしいと考える。餞別として心ばかりではあるが納めてほしい。」とのこと、ほんとうに有り難いと思い受けとることにした。これで金にもゆとりが出来心強さを覚えた。
 3月28日だったと思う。「4月4日午後5時まで宜蘭駅に集合のこと」と指令がきた。
「ああいよいよ一週間程で此の地を離れるのか」当地に転勤を命ぜられたのが昭和18年7月それから2年余り、昭和11年11月初住地が隣接の羅東(らとう)郡であった。思い出深い地である。
 引揚準備としても一人身であるから柳こうりに、洋服3着、コート1、和服4着、毛布3反、次にリュックに下着、必需品を入れ後は念のため食パン・カンパン・砂糖少々これで準備完了、後は4月4日を待つのみであった。
 心のゆとりも出来たので、屋台の親父との別れのため呑みにいった。
「親父呑みにきたよ。今夜が最後だ。元気でな。」
「獣医さんよくきたね」
「別れのため呑みにきたのだ。ほんとうに世話になったな元気でな。」
「ああ先生もね」
さらば宜蘭よ。人間のほんとうの心ははかりしれない。若さ27才の血はおどり、いつの日にか又面会の日は−。
 思いはすでに年老いた両親の顔。親せきの人達。いかに戦後の荒廃した日本で過ごしているのだろうか。心は早や、故郷高鍋へと。
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