戦争を体験したひとびと
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満州引場

高鍋町 男性
 私達(家内と子供一人)が満州から引揚げたのは昭和21年9月のことだった。くらみえに夕方汽車が高鍋駅に着くには着いたが、駅舎のぐるりを見ると、戦災の跡がありありと見える。高鍋は私の郷里ではあったが、一家を挙げて満州に行っていたので、郷里とは言え、住むにあてどはなかった。
 しかし、母の里方が中鶴にあったのでそこをたずねて見て、生活出来そうになければ、家内の里である和歌山に行くほか仕方がないと思い、中鶴の方面の状況を駅員に尋ねた。「さあ、行って見ないとわからない、殆んどの家が空襲や、枕崎台風のときに倒れているので、家があるといいですがね。」という話。とに角行ってみることにした。しかし、もしもの時のことを考えて家内と子供は駅舎に残しておいた。
 中鶴の母の家は無事だった。それから今日まで40余年の高鍋生活が始まるわけだが、母の里方も叔父一家が大分から引揚げていたので、1、2日いて姉の家に身を寄せた。
 まず始めなければならないのは、子供の身の振り方であった。子供というのは大体次のような理由で引揚げの途中から連れて帰った孤児だった。
 引揚げの途中私達は錦州の収容所に入れられたが、引揚げを容易にするために中隊制度をとっていた。私はその中の小隊の世話をさせられていたが、私の小隊の中に乳飲み子をかかえた一人の母親がいた。しかし明後日には船に乗るというときになって、その母親はアメーバー赤痢にかかって死んでしまった。残された子供がこの子である。
 私は小隊長という責任を感じて、とに角連れて帰ることにした。おしめのいる子供のこととて、皆に呼びかけたら、たくさんのおしめが寄附されたのを忘れることが出来ない。
 この子供の母は佐賀県、父は新潟県の人であったが、くわしいことは判っていなかったので、県庁に問い合わせのはがきを出した。係の人が余程手を回して下さったのだろう、まず佐賀から、おじいさんがみえた。僅か1ヵ月余りの吾が子だったが、別れるとなるとやはり淋しい。「一晩位泊って行ったら」とすすめたが「皆が待っているので」といってその晩のうちに子供をつれて帰られた。
 新潟にも連絡していたので、「ひょっとすると、新潟からも来られるかも知れない」と心配だった。
 結局、「先に佐賀に行っているかも知れない」と新潟の叔父さんは佐賀に寄り、「お世話になった」と、高鍋までわざわざあいさつに来て下さった。子供は新潟に連れて帰るとのことだったが、折角孫が来たと喜ばれた佐賀のおじいさん達の落胆ぶりが目にみえるようだった。(新潟のお父さんになる人はシベリヤに抑留されていたが、数年たって無事帰られた。)
 あの混とんとした世の中で、孤児をみんなの協力のお蔭で連れて帰り、無事に身内の方にお渡しできたことは一生忘れられない思い出である。   
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