戦争を体験したひとびと
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大東亜戦末期に至る私の思い出

スーヤ!!(誰か!!)

延岡市 男性
 初年兵時代、候補生時代を通して、幾たびとなく訓練した歩哨線における誰何(すいか)だ。「スーヤ!!」ギクリとして立ち止まる。一瞬の間を置いて再び「スーヤ!!」心臓は早鐘のように脈打っているが奇妙に頭の中はワリと平静だ。脳裏のなかに候補生時代のことがよぎる。「まさかやられる方に回るとは思わなかったなァ!もう一辺やるのかな?」トタン!! ドカン!! ドカン!! バリバリバリ、手りゅう弾と軽機で狙いをつけず激しく撃ってきた。
 終戦4日後の昭和20年8月19日午前3時のことであった。一面漆黒の闇、至近距離にもかかわらず銃弾は2メートル位上を通過し、手りゅう弾も5、6メートル以上はずれている。はじめて小声を出した「中隊長殿、敵は歩哨だけです。かまわずドンドン進んで下さい」暗夜でしかも山道だから走る事はできない。息せき切って歩いた。高島中隊長以下僅か7名である。
 八路軍の正規軍約八千の重囲の中を強行突破せんとする、昨日からの撤収作戦で手ひどく叩かれ暗夜のせいもあるが兵、小隊の掌握はオロカ38才の中隊長を守るのが精一杯であった。第二小隊長の道野少尉も昨日の戦闘で力尽き、兵に軍刀を託し「よろしく頼む」との言葉を残したまま行方不明となっている。馬場曹長も私の眼前20メートル程のところでの白兵戦を目撃したが生死の程は分からない。撤収作戦の緒戦、連絡に出した島田軍曹以下6名の者も行方不明だ。惨めな、実に惨めな退却戦であった。
 不思議に敵の追跡がない。後続の兵もない。昨夜の山頂での作戦命令で「各自強行突破せよ、孟県(中隊本部所在地)はこの方向、距離は8キロメートル!!」と唯一つ輝いていた名も知らぬ星を指差したのが頭の中に残っているが小隊を掌握出来ないモドかしさをどうすることもできない中隊長を励ましながら歩きに歩いた。
 気がついてみると既に平地になっている。いつ平地になったのか全く気がつかなかった。今思うと「スーヤ!!」の一言でやはり相当動転していたのだろう。時計を見ると誰何されてから一時間半を経過している。後方で散発的に銃声が聞こえる。東の空もようやく白みかかっている。中隊長の歩行が乱れている。ヨシ!! 小休止、7人で朝露が一杯の野原にドタリと倒れこんだ。
 「隊長殿、もう敵は大丈夫です。しかし、このままでは中隊の衛門はクグれませんよ。ここで待機して中隊を掌握しましょう。」「ウンそうだな。みんな無事だといいがなァ。」フト見ると10メートル程離れたところに、トウモロコシを収穫したあとのキビが十本ばかりウラブレた姿で立っている。50数年を経た今日でも奇妙に此の風景が脳裏に焼きついている。
 と!! 見えた!! また見えた!! アチラの谷合いから、こちらの森陰から三々五々と兵の姿が見える。既に銃声はない。「オーイ、コッチだコッチだ。」思わず大声を出す。銃を杖にやっと歩いている者、うしろの方からも続々とやって来る。ヤッタ!! 成功だ。最後に為永軍曹が30名程の兵と一緒に合流した。「もうこれが最後尾と思います。」軍曹の報告で直ちに座り込んでいる兵を叱咤して点呼。「75名全部いてくれよ」神に祈るような気持ち。「総員75名山頂時より異状ありません。負傷者5名。終わり。」
 これは奇跡だ。一かバチかの脱出作戦であったが期せずして敵の最も手薄なところを突破したらしい。「為永軍曹ありがとう」思わず声を出し肩を抱いた。あふれる涙をどうすることも出来ない。中隊長も一人軍刀を手に泣いている。
 結局この分遣隊撤収作戦で中隊での戦死者27名(内佐藤小隊6名)行方不明者11名(道野少尉以下全員八路軍の捕虜となり後に無事復員したる由)の犠牲を出した。心から心から冥福を祈ります。「スーヤ!!」この声を今も忘れることは出来ない。ちなみに小生の受傷はこの戦闘の4ヶ月半あとの昭和21年1月8日早朝である。
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