戦争を体験したひとびと
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大東亜戦末期に至る私の思い出

綾町 男性
 昭和17年当時23連隊は中支において或る作戦を終えて上海付近に集結し衣替えなどをして待機して居りました。爾後の行動また次は何があるのかも分からず不安でしたが、病弱者とか下士官の一部はいつの間にか内地還送になっていて、残された兵隊達は尚更不安な気持でした。
 そんな或る日、太平洋戦争以来苦戦を続けていたガダルカナル戦が益々悪化していて23連隊いや6師団全隊が明第9019部隊に編成され、苦戦しているガダルカナルのソロモン群島に向かうことになっていたのです。出港は明確ではありませんが、多分11月の末頃だったのではないか・・・といよいよ船は上海の港を後に南に向かって出港しました。
 十隻位の船団を組んで出港し23連隊の船は明宇丸と言う船で大変古い昔の貨物船を改造した一万トン級の船でしたが、名前が明宇丸とは余りすきな名前ではないな・・・と話し合ったことを思い出します。船団の3、4番目頃の順番で一路南の島ソロモン群島に向かい出港しました。
 途中パラオ島に燃料補給の為寄港、兵隊達は暫く陸上生活を離れていたせいか、悦びをかくしきれない有り様で上陸し、思い思いの食事を楽しんで数時間後再び乗船出港となりました。初めて見たパラオ島の町並は何んとなく内地の商店街に似た街並、美しい女性のサービス等もありそれぞれの思い出を胸に次の寄港はトラック島でした。どの位時間が過ぎたのでしょうか。目の前に軍艦によく似た島だな、と思ったのがトラック島でした。丁度その時港には海軍の駆逐艦が入港していたとのことで上陸はせず数時間休養程度で再び船は一路南に向かって動き始めました。
 一昼夜位たった頃船は赤道の直下を通過することで、通過する船はすべて赤道祭をするのが通例とかで準備が整えられておりました。普通の料理の何倍もある様な料理が各分隊毎に配膳され若い兵隊が一人一人に配分してくれました。
 さあ準備が出来た。皆座について箸をとり1パイを口もとに・・・とその時ドカン・・・と1パイどころか箸どころか、裸体のまま取るものも取り敢えずと言うのがこんなことか我先にと上甲板へとよじ上り2、30メートルある甲板上から海中めがけて飛込み、必死の思いで母艦より離れることに懸命でした。
 3、4番目にいた私達の船より前を航行していた船はことごとく敵の魚雷に見舞われ海中に放り出され兵隊は、そのまま太平洋のもくずとなった。丁度夕食時間6時項の出来事で南海の比較的暖かい海ではありましたが一晩中の長時間潮水の中となりますと身体はシビレる思いでした。
 夜が明けて周りを見ると遠くに三々五々いるだけでかなり残ったいた兵隊と思って居りましたがサメのエジキとなった事もあったと思われる。これではとても生きて帰れるなんて思いもよらないことだと思っておりました所、突然どこから来たのか敵か味方かも分からない飛行機が上空を暫く回っていました。これで助けてくれるのかと思っていた矢先、いつのまにか見えなくなり運を天にまかすと言うことでしょうか。全身力尽きる思いでした。
 それから数時間もたった頃今度は船が近くまで来てボートを降ろし始め点在している兵隊を救助に回り始めました。サメの群がる海中でやっと私の順番になりましたが、群れるサメをオールで追っ払いながら引き上げて貰い九死に一生と言う命拾いをしました。
 裸体で丸腰という格好でありましたが、やっとの思いで目的地ブーゲンビル島に上陸することが出来ました。激戦の筈のガダルカナル島もこの列島のすぐ近くであるのに空からも海の抵抗も全くなく平穏な上陸でした。魚雷の攻撃で足に軽傷を受けて居りましたが、一昼夜の海水消毒で傷みもなくほとんど治癒しておりました。
 暫く敵機の攻撃もなく忘れる頃遠くを飛んで行く様な音を聞くだけで兵隊の生活は専ら気候風土に馴れる身の調整や喰う為の調整等で数ヶ月が過ぎ昼でも夜明けのようなウス暗いジャングルの中に分隊毎の小さな起居だけの兵舎生活が始まりました。
 部落はモシゲタだったと思います。ここで又数ヶ月が過ぎ或る日突然敵機が兵舎付近の上空を旋回し始めたと思ったら、爆撃が始まり身を隠すのが精一杯、コケむす古倒木の下に身をよせ爆塵を避け爆撃の収まるのをまって隊伍を整える有り様でした。
 その頃情報では敵の攻撃は沖縄付近まで攻撃を受けているとのことで最早ソロモン群島など本土攻撃のトビ石拠点みたいな所だったと思われます。
 すぐその頃島の最北端タロキナ部落に飛行場が構築されていてタロキナ作戦というのが始まりました。小さい島のことですから、陸上の戦闘は決着はすぐつきますが、今度は目にも見えない洋上の船からの攻撃、また上空からの攻撃など陸上の部隊は手も足も出ない有り様で、身を隠すのが精一杯、攻めつ攻められつをくり返し2回程負傷もして入院しましたが、軽傷でしたので、再度戦闘に加わり今度は戦車なども加わる戦闘など次々と局面打開のむづかしい戦になりました。
 私の最後の戦争になりますが、プリヤカ河左岸の戦争、6師団全隊だったでしょうか、13連隊23連隊45連隊その他特科隊等夜中の内に布陣され夜明け前一斉攻撃になり敵味方の弾道で雑林雑草などのジャングルもまたたく間に草野原の様で、夜が白々する頃右上腕骨折貫通銃創を受け大樹の蔭に身をひそめて静まるのを待って転進、野戦病院に収容されることになりました。
 時に昭和20年4月5日最早動きのとれない身です。次々後送されてくる兵隊の話によれば三百人も居た私達の中隊も今では2、30名位とか、思いもよらないことが起きることになります。
 8月15日はいつもの様に飛来した敵機2、3機が病院の上空を旋回しながら何かフザケているかの様に爆撃するでもなく帰って行く。こんなことが2、3日あって18日頃悲惨にも終戦を聞かされました。兵隊は勿論国民は皆この動かす事の出来ない事実をどの様に転換されるのか、それぞれ人の考えにゆだねることとしとどめたい。私は翌年4月病院船で内地帰還することになります。
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