太平洋戦争の思い出 |
傷痍軍人の戦記 妻の手記 |
空襲警報下の怖い思い出
綾町 女性
私は昭和16年高等科を卒業して都城製糸工場へ入社しました。当時は支那事変であちこちと、戦死の知らせ。若くして未亡人になられ、幼子を育てて行かれる戦争故のむごさと悲しみを耳にし、見てきました。戦争も激しくなり又、食料難で何時も空腹を感じながらの毎日でした。
休みで家に帰る時、朝4時頃から友達と12キロの道のりを歩いて帰りました。母がおにぎりや、カライモをふかしてくれ、それを会社に持って帰りお部屋で食べ残しては始末して、夜になると度々の空襲警報、退避の用意、部屋の電灯は黒い布をかぶせ、暗い毎日の夜でした。
お部屋は高卒で入社したばかりの女子ばかり、時には泣く子もおりました。何時も休む時はモンペー姿で休み、防空頭巾を頭の横に、食料のいり豆やカライモなども忘れずに置き、ゆっくり休むことも出来ませんでした。あの夜この夜とB29の機音は忘れられません。
私達の工場も時代と共に、絹糸でパラシュートを作る工場になり、とてもきびしくなりました。敵の攻撃ははげしくなり、もうあちらこちらに焼夷弾が投下され、毎日がおびえながらの仕事でした。
丁度昼食を済ませ、自分の食器を洗う寸前12時40分頃でした。空襲警報と同時退避で本当にどうして防空壕に入ったか命がけでした。頭巾をかぶりふるえるばかりでした。主任さんは少し足の悪い方でした。足を引きづり、片方だけ靴をはいてはいりこまれました。工場は焼夷弾で火の海です。寮に焼けうつらない様に、必死でお風呂の水をバケツで頭から水かぶり手渡しでバケツの水をかけました。
寮には沖縄の女性工員さんだけが残り、全員実家へと足を運びました。焼け野原になった本駅通りを、友達と志和池へ、小林、高崎へとお互いにおびえながら歩いて帰りました。くすぶる煙の中を命がけで、体だけ。家に待っていた母は心配そうに無事を祈っていたそうです。10人の子供を育て苦労した母です。世界平和を祈ります。
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