戦争を体験したひとびと
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太平洋戦争の思い出

小林市 女性
 昭和19年10月8日の夜、三味線と太鼓の音が、悲しみを吹き飛ばす様に、鳴り響いております。
 実は私の従弟が、召集されて行く為の、送別会でした。彼の両親は、旧満州国の、牡丹江に勤めておりましたので、内地の旧制中学に入学する為、祖父母の家での生活でした。東京の大学校に在学中で、学徒出陣でした。
 たびたびあちこちで、出征する人が多くなり、駅にはモンペ姿、白いエプロン襷をかけた婦人会の方や、家族に見送られながら汽車は発車して行きます。
 親子の別れ、夫との別れ、死を覚悟の別れです。戦争中であるというだけで涙も見せられず、さぞ辛かった事でしょう。
 16才か17才になった子供は、特攻隊などに志願して行き、学生等は工場に集団で徴用でした。帰らない人もありました。
 残された女や年老いた男性は、奉仕作業で銃後を守る様に組長さんからの連絡がある度に、何回も出て行きました。私達は都城近くだったと思います。2人でモッコを持ち、土運びでした。飛行場作りだとの事で、一生懸命働きました。日本が勝てる事を信じつつの奉仕作業でした。
 当時は今の様に、国の状態はわかりませんが、たびたびの空襲等で悪くなって行く様子が、わかる様になりました。
 昭和20年の或る晴れた日、飛行機の音に気付き、南の空を見たら、B29が高千穂の峰の下側を、大胆不敵という様に、下から高射砲の硝煙が何回も打ち上げられる中を、余裕綽々と、西から南東へ、6機編隊で、去って行きました。
 その時を前後して、私達の地区にも、部隊が来ました。内地で召集されて、旧満州国の牡丹江方面で現地教育といい、向こうで何カ月か教育されて、当地に来られたらしいです。部隊長が私の家に宿泊されておりました。大阪方面の人が多かった様です。内地も危くなって来たと思いました。東京方面での大空襲を知り、私達も夜は電灯を低くして、黒い布で覆い、光が外にもれない様に少々暑くても、雨戸を締めたり、色々工夫して暗闇で過ごしました。
 昼は少しでも働いて、食料を確保しなければなりません。その頃は働く人も少なくなり、田や畑が返ってきました。私達は祖母の家を相続しましたが、主人は中支での戦傷で右腕が不自由でした。その上2人共農業の経験がなく教えてくれる家族もおりません。近所の人のを見たり聞いたりの農業で、その頃麦を作っておりました。雨が多い時季ですので刈って干してあるのから、芽が出るのは度々でした。やっと乾燥させて運ぶのも荷車です。重いのを人力で午後持ち帰り、翌日落とす準備をしていたら、空にはたくさんのトンボが飛んでいる様に、艦載機が隙間なく、飛んで来ました。家の裏に何百年か昔の大きな柿の木があります。慌ててその下に持って行き、恐怖の中、足踏脱穀機で作業したのを忘れません。
 田植えも全部手作業です。牛の鋤きで耕し、マンガで平らにして近所の人も手伝ってもらっての田植えです。家のが済めば手伝ってもらった所の手伝いです。最初から終る頃は1ヶ月位です。雨の日はまだ当時は蓑と笠でした。雨の多い時は下に綿入れの袖無を着ていないと、体内に水がもれて、寒くなりました。
 地区の部隊に皆で野菜を持ち寄り出しておりました。野菜もあまり良く出来ません。肥料も無く経験もありません。空襲警報のサイレンが聞こえると防空壕へと走る日々でした。
 昭和20年の6月項だったと思います。高原町で赤痢が流行して、次々と患者が多くなり、高原町の公民館が避病室となり、30名から40名位の患者数になったと思います。
 若い医師の方達は軍医として召集され、残っていた医師は60才過ぎ位の人が2人でした。その内の一人は義父でした。薬は少ない、食糧も栄養のある様な物はなく、衛生管理も悪く、悪条件の中での治療も、大変困難だったと思います。
 丁度その頃、機銃掃射で近くにいた住民と兵隊の方が撃たれ5、6名倒れ、窓際に寝ていた患者さんにも流れ弾丸があたりガラスの破片などで怪我して、小林の病院にて治療でした。その時の機銃掃射は鉄道に沿って行き、広原で歩いていた人、小林の踏切にいた人、西小林では小学生も撃たれ、計十数名の方達が亡くなり、一瞬の出来事で8月10日の朝9時でした。広島に原子爆弾が投下され、続いて長崎にも原子爆弾が投下され、8月15日終戦を迎えました。
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