戦後50年 私の戦争体験談 |
阿鼻叫喚 |
忘れ得ぬ人々
都城市 女性
“明治は遠くなりにけり”と言いますが、明治どころか敗戦も遠くなりにけりで、記憶も薄れつつあります。庄内小(庄内国民学校)の空襲の際は、私は庄内小3年目の勤務でした。戦争はだんだんと悪化し、小学生も食糧増産の戦士となり、農村への動員にあけくれておりました。分散授業になったのは学校が食糧倉庫となり、防空壕を掘る兵隊さんの駐留兵舎になったからでした。私の学級の登校日が庄内小空襲の日であろうとは!!私はお昼に子ども達を残して西区のわが家に帰って、食事をとっていました。
空襲警報と共に家にかぶさってくるような爆音を耳にし、表に飛び出して思わず立ちすくみました。「危い!」と、とっさに身を伏せた途端、ピュー、ダダダアンという機関銃の音が身近に聞こえました。異様な耳をつんざく衝撃音の連続です。
“学校だ”学校には受け持ちの子どもがいる!!気は落ち着きませんが敵機の去るのを待って学校に向けて走りました。どこをどう走り抜けたかを覚えていません。アッという間のこの生き地獄。後から聞いた話では、焼夷弾火災は、平時の火災と異なり、同時に多発的であるので、消火活動は出来ないのだそうです。
校門にたどりついたとき、その惨禍に息をのみました。黒い煙と、まだくすぶる火災、油くさい熱い風、熱地獄とはこの様な光景を言うのでしょうか。茫然として立っている私の前に、校長先生の姿が目にうつりました。「子どもは、子ども達は?」と聞きたいのですが、声になりません。
校長先生は「子ども達は奉安殿の下に掘ってあった防空壕に避難していて無事でした。」と言われました。校長先生は、子どもから離れた私を、厳しく注意されました。熱風の吹き巻く中で、新米教師の失策を悟されたのでした。教師として、失格の悲しみの心が身体中を駆け巡りました。40年近い教師生活の教訓として、“子供と共にある教師”は、それから私の座右の銘となりました。
ある夏の暑い日、兵隊さんがわが家を訪ねて来られました。「その楽譜をお貸しくださいませんか。」との用件でした。東京出身の軍医将校さんが兵隊さんの演芸会で使うとのこと。私は持っていたすべての楽譜をお貸し致しました。私はその当日、演奏会を見ることは出来ませんでしたが、“乙女の祈り”を弾かれたそうです。すばらしい演奏であったと聞きました。その演奏会がすんでいく日もたたない日に講堂はピアノと一緒に焼失したのでした。
ポーランドの人バーハ・ゼススカの作曲で国境を越えた乙女の祈りをなぜ弾かれたのか?当時、月月火水木金金とか、軍艦マーチ、海行かばなどの曲が毎日のように流されている時でした。演奏された軍医将校さんは、どんな願いをこめてどんな気持ちで乙女の祈りを弾かれたのでしょう。
乙女は皆平和を愛していました。この曲は、新しい世界を求めて、モスクワへ旅立とうとする乙女イリーナの未来にかける願いを作曲したものだと言われています。終戦の夜、星の輝く夜空を眺めながら、もう飛行機はこれからとんでこない、と思うと解放された嬉しさを覚えたものでした。思い出は、世代と共に消えていくもの。戦争には美はないと思います。美に敏感なのは、乙女なのです。
“乙女の祈り”は私たちの小さな幸せの願いであったのです。戦中、戦後の激動期に青春を過ごした私達は、特異な世代、即ち冬の時代とも言えましょう。
何を美しいとするのか、魂とするのか、何が正しいのか、何が悪いのか見極める能力が必要です。太平洋戦争は、日本歴史の上で最大な愚行・最大な悲惨事でした。記憶が風化されようとしています。語り伝えること、これはいまでなければ遅すぎるのです。
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