阿鼻叫喚 |
戦後50年 私の戦争体験談 |
牛糞と空襲
都城市 男性
8月6日昼食前であった。警戒警報なしで空襲警報と思ったら市内方面に火の手が上がった。時を移さずグラマンが川崎航空機都城製作所を襲った。とにかく製作所より遠くへ逃げようと西へ走った。その時、一機の飛行機がこちらへ来るのが見えた。何か大きな爆弾を落とした。バケツ一杯の水を庭の一ヶ所に捨てたような感じだった。と思った瞬間、火が広範囲にひとところに付いた。後でわかった事だが、これがナパーム弾と言うのであった。場所は今の都城農業高校の近くである。
なるべく道路を通らないよう庭を通り壁を越えて逃げた。
その時、また、機銃を打って飛行機が近づいた。私は牛小屋の近くにうずくまった。畑に土煙があがるのが横目で見えた。生きたここちがしなかった。
それからどう歩いたか知らないが、気がついたのは川東町の新田溝の橋の下であった。ここからグラマンが飛ぶのを見て、市内方面、川崎工場方面の火災の凄まじさを茫然と眺めていた。
その時である、隣りにいた同僚が「何かクサイぞ」と言う。本当にクサイ牛糞の匂いだ。何故だろうと見回したがそんな物はない。その時、自分のズボンを見た。ズボンに牛糞がベットリと付いているではないか。何処でと一瞬思った。良く考えて見たら、グラマンが機銃掃射をした時に牛舎の近くに伏せた、その時牛糞の上に伏せたのであろう、とにかく逃げる事が精一ぱいであった。
小一時間位して、自分の家が心配になり、都城市内へと向かった。平江町方面がすごく燃えて道路は通れない。遠回りして家へ着いたが、家は無事で父が一人残り家族は避難していた。前田町の親戚の家が心配で加勢に行き、屋根の一番上に付いた火を、天井裏からバケツリレーで消し止めたのは、今でも脳裏に浮かんでいる。今はその家は無い。
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