| 延岡市 [62] 栗田彰子先生之碑 | <碑 名> 栗田彰子先生之碑
<来 歴> 昭和20年6月29日未明、アメリカ軍機による空襲により学校が炎上し、それを消そうとしていた際、焼夷弾の直撃を受けて殉職された。 昭和26年8月、栗田先生の遺徳をたたえ、遺族や教え子達が中心となって慰霊碑を建立する。 毎年、被災日に合わせて延岡中学校生徒と遺族そして教え子による慰霊祭が行われている。
<所在地> 延岡市浜砂1丁目6番1号 延岡中学校正門横
<所有者> 延岡中学校が管理
<詳細の問い合わせ先> 延岡市立延岡中学校 電話 0982−33−2541 |
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| 日南市 [63] 日南市飫肥地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 日南市大字楠原2076−乙
<所有者> 日南市
<建立時期> 昭和28年8月8日
<合祀柱数> 338柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月 |
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| 日南市 [64] 日南市油津地区 | <碑 名> 慰霊塔
<所在地> 日南市油津上町
<所有者> 日南市
<建立時期> 昭和28年7月19日 平成9年4月 銘板作成 平成18年7月 慰霊塔塗装
<合祀柱数> 475柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月中旬(神式) |
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| 日南市 [65] 日南市吾田地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 日南市大字戸高1021−2
<所有者> 日南市吾田遺族協助会
<建立時期> 昭和30年10月20日
<合祀柱数> 345柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 春分の日 |
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| 日南市 [66] 日南市東郷地区 | <碑 名> 忠魂碑
<所在地> 日南市大字東弁分甲字内山1796
<所有者> 日南市東郷地区遺族協助会
<建立時期> 昭和20年5月 平成10年11月11日再建
<合祀柱数> 173柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 3月(第2日曜) |
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| 日南市 [67] 日南市鵜戸地区 | <碑 名> 鎮魂碑
<所在地> 日南市大字宮浦696
<所有者> 日南市鵜戸地区遺族会
<建立時期> 昭和51年10月26日 (伊比井地区慰霊塔及び鵜戸地区慰霊塔を統合)
<合祀柱数> 103柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 3月20日(春分の日) |
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| 日南市 [68] 日南市細田地区 | <碑 名> 招魂社
<所在地> 日南市大字毛吉田1323−1
<所有者> 日南市細田地区遺族協助会
<建立時期> 昭和51年10月再建
<合祀柱数> 358柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 3月上旬 |
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| 日南市 [69] 日南市酒谷地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 日南市大字酒谷鯛之子
<所有者> 日南市
<建立時期> 昭和30年5月
<合祀柱数> 217柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月29日 |
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| 日南市 [70] 海難者慰霊塔 | <碑 名> 海難者慰霊塔
<来 歴> 太平洋戦争時(昭和20年)、洋上の監視警戒の軍事任務と海軍の食料補給にあたり、油津港沖で、アメリカ軍機に襲撃され、遭難した油津漁業組合所属の特殊漁船船員41名を慰霊。
<所在地> 日南市油津2丁目10付近 港大橋近く
<建立時期> 昭和30年7月 |
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| 日南市 [71] 漁士之碑 | <碑 名> 漁士之碑
<来 歴> 昭和17年4月、宮崎県水産講習所修練船追進丸が、都井岬沖で実習中、突如、敵潜水艦の攻撃を受け、敵弾に倒れた非戦闘員である教官1名・研修生3名を慰霊する。
<所在地> 日南市西町二丁目11−8 宮崎県高等水産研修所内
<建立時期> 昭和38年4月
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| 日南市 [72] 梅ケ浜地区被爆者慰霊碑 | <碑 名> 梅ケ浜地区被爆者慰霊碑
<来 歴> 太平洋戦争末期の昭和20年7月、アメリカ軍機が、日本軍の弾薬庫となっていた梅ケ浜地区の天理教教会を襲撃し、地区民29名と海軍兵4名が犠牲となった。
<所在地> 日南市梅ヶ浜2丁目 梅ヶ浜下区公民館近く
<建立者> 被爆者慰霊碑建立委員会
<建立時期> 平成7年8月
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| 小林市 [73] 小林市 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 小林市大字細野509番地5
<所有者> 小林市戦没者追悼奉賛会
<建立時期> 昭和30年3月10日
<合祀柱数> 1,602柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月8日 |
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| 小林市 [74] 小林市須木 | <碑 名> 忠魂碑
<所在地> 小林市須木中原1722番地
<所有者> 小林市
<建立時期> 明治42年4月10日
<合祀柱数> 179柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 11月3日 |
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| 小林市 [75] 殉難者の碑 | <碑 名> 殉難者の碑
<来 歴> 昭和20年8月10日、農作業に出かける途中の西小林国民学校(西小林小学校)の奉仕隊が、西小林駅前で敵機の標的となり、児童8名を含む10人の生命が奪われ、ほかに18名の重軽傷者を出した。 終戦後の昭和47年3月、西小林小学校校庭に、地区の有志により碑が建立された。 ※小林市史 第2巻P865、第3巻P150〜151に記載あり。P902に詳細
<所在地> 小林市大字南西方 西小林駅付近
<所有者> 小林市立西小林小学校
<詳細の問い合わせ先> 小林市社会教育課 電話:0984−22−7912 |
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| 小林市 [76] 殉没者之碑 | <碑 名> 殉没者之碑
<来 歴> 昭和20年5月8日、川崎航空機工業株式会社都城工場の食堂で朝食を済ませた頃、突如空襲警報が鳴り、防空壕に避難する途中の動員学徒(旧小林中学校生徒)が爆弾の直撃を受け、一瞬にして10名の死者(のち11人の殉没)が出た。 慰霊碑は、昭和41年及び56年に小林高等学校の校庭に建立されている。 ※小林市史 第2巻P856、第3巻P150〜151に記載あり。
<所在地> 小林市大字真方 小林高等学校校庭
<詳細の問い合わせ先> 小林市社会教育課 電話:0984−22−7912 |
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| 小林市 [77] 忠霊碑 | <碑 名> 忠霊碑
<来 歴> 日中戦争及び太平洋戦争戦没者の忠霊碑。 昭和46年7月25日、社団法人堤自治会によって建立された。 背面に戦没者氏名が記されている。
<所在地> 小林市大字堤 堤自治会 堤土地改良区事務所となり
<詳細の問い合わせ先> 小林市社会教育課 電話:0984−22−7912 |
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| 小林市 [78] 鎮魂歌碑 | <碑 名> 鎮魂歌碑
<来 歴> 昭和20年8月終戦直後、明日の除隊を前に兵舎後方の崖崩れにより、多くの兵達が殉難死した。 平成6年8月15日終戦記念日に、千葉県我孫子市の江藤勇氏によって建立された。 鎮魂歌の作詞者は、村山正八氏と村山祥峰氏。
<所在地> 小林市大字南西方 県道京町小林線 満州第960部隊作業隊慰霊碑と同敷地内に所在
<詳細の問い合わせ先> 小林市社会教育課 電話:0984−22−7912 |
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| 小林市 [79] 満州第960部隊作業隊慰霊碑 | <碑 名> 満州第960部隊作業隊慰霊碑
<来 歴> 太平洋戦争において、作業隊の精鋭は満州の国境に中国の荒野に南方の諸島へと転戦奮闘したが、その主力は本土決戦に備えて飯野に進駐した。 この間壮烈な戦死を遂げた者は、50余柱だった。 有志が集い、作業隊の終焉のこの地に碑を建てた。 昭和48年9月、九楽会が建立。最近建て替えられた。
<痕跡の所在地> 小林市大字南西方 県道京町小林線
<詳細の問い合わせ先> 小林市社会教育課 電話:0984−22−7912 |
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| 小林市 [80] 平和の塔 | <碑 名> 平和の塔
<来 歴> 終戦後46年を経過した平成3年11月3日、人々の平和への願いをこめて、大年神社境内に「平和の塔」が建立された。
<所在地> 小林市須木大字中原1721 大年神社横
<所有者> 小林市原地区 |
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| 日向市 [81] 日向市 | <碑 名> 殉国慰霊塔
<所在地> 日向市大字富高古城ヶ丘
<所有者> 日向市
<建立時期> 昭和36年11月
<合祀柱数> 1,369柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月 |
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