| [37] 軍馬建立之碑 | <碑 名> 軍馬建立之碑
<来 歴> 日中戦争から太平洋戦争にかけて日本全域から動員され、徴用従軍した軍馬は約10万頭と言われていますが、戦死・病死した軍馬は一頭も故郷へ還ることが出来ませんでした。 そこで、日中戦争並びに太平洋戦争に動員された軍馬の慰霊並びに占領軍により徴傭された軍馬の顕彰を行うため、終戦40周年の記念事業として、軍馬慰霊顕彰碑が建立されました。 (陸軍墓地内には、この他にも昭和10年と昭和18年に建立された軍馬記念碑があります)
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和60年11月
<詳細の問い合わせ先> 宮崎県軍馬顕彰会
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| [41] 戦災復興記念碑 | <碑 名> 戦災復興記念碑
<来 歴> 都城市が太平洋戦争時、米軍機の空襲で甚大な被害を受けた戦災地の復興を祈念して、昭和41年2月に建立したものです。
<所在地> 都城市大王町8の11付近(岩脇橋北交差点前)
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和41年2月 |
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| [28] 都城市山之口町 | <碑 名> 慰霊塔
<所在地> 都城市山之口町花木1589 山之口小学校内
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和38年12月1日
<合祀柱数> 388柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 9月23日 |
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| [30] 都城市高城町有水地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市高城町有水(有水寺境内)
<所有者> 都城市高城町有水戦没者遺族会
<建立時期> 昭和45年10月30日
<合祀柱数> 171柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月3日 |
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| [25] 都城市庄内地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市庄内町13245−2 庄内児童公園内
<所有者> 都城市庄内地区戦没者遺族協助会
<建立時期> 昭和30年4月16日
<合祀柱数> 566柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月18日 |
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| [35] 満州事変戦没者合祀碑 | <碑 名> 満州事変戦没者合祀碑
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和9年8月13日
<来 歴> 満州事変の戦没者を合祀するために建立された碑です。
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課 電話:0986−23−2980 |
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| [43] 慰霊碑(上長飯・一万城・広原地区) | <碑 名> 慰霊碑(上長飯・一万城・広原地区)
<来 歴> 日中戦争及び太平洋戦争で亡くなった戦没者名を刻み、後世に伝えるために慰霊碑が建立された。
<所在地> 都城市上長飯町78(小鷹神社内)
<所有者> 小鷹神社
<合祀柱数> 111柱
<詳細の問い合わせ先> 上長飯・一万城・広原地区戦没者慰霊碑奉賛会(小鷹神社内) |
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| [31] 都城市山田町 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市山田町山田3881 山田総合支所横
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和30年4月30日
<合祀柱数> 515柱
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| [46] 庄内空襲之碑 | <碑 名> 庄内空襲之碑
<来 歴> この碑は、平成7年8月に庄内小学校同窓会有志を中心とした多くの協力により建立されたものです。 昭和20年当時、庄内小学校は日本軍の兵舎や食糧倉庫となっていたことから、同年8月6日正午前に米軍による機銃掃射や焼夷弾の攻撃をうけました。 大講堂や二階建ての校舎など4棟が焼失し、さらに西区、町区の民家も被弾や延焼により72戸が戦災に遭いました。
<所在地> 都城市庄内町(庄内小学校横)
<所有者> 不明
<建立時期> 平成7年8月 |
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| [40] 被爆殉没之地 | <碑 名> 被爆殉没之地
<来 歴> 戦前、都城市にあった川崎航空(現・川崎重工業)の都城工場に学徒動員の小林中学校(現・小林高校)3年生157名が、現在の都城農業高校グラウンドがある位置に建てられた「高千穂寮」で寄宿舎生活をしていたが、昭和20年5月8日の朝、警戒警報を受けて集団で退避中に、米軍の爆撃に遭遇して10名が死亡し、多数の負傷者が出ました。 被爆者の鎮魂と平和への新たなる祈りを捧げるために、昭和56年5月8日に同地に建立されたものです。
<所在地> 都城市祝吉町1−5−1 都城農業高校グラウンドの北西の一角
<所有者> 都城農業高校
<建立時期> 昭和56年5月8日
<合祀柱数> 10柱
<詳細の問い合わせ先> 都城農業高校 電話:0986−22−4280 |
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