| [45] 大戦没記念碑 | <碑 名> 大戦没記念碑
<所在地> 都城市小松原町(神柱宮西側公園内)
<所有者> 都城市
<建立時期> 明治41年4月
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課 電話:0986−23−2980 |
|
| [39] 済南事変戦死者之碑 | <碑 名> 済南事変戦死者之碑
<来 歴> 済南事変の戦死者を合祀するために建立された碑です。
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和4年
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課
|
|
| [36] 戦傷病者の碑 | <碑 名> 戦傷病者の碑
<所在地> 都城市都島町380(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和55年1月
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課内 電話:0986−23−2980 |
|
| [44] 太平洋戦争戦没者慰霊碑 | <碑 名> 太平洋戦争戦没者慰霊碑
<来 歴> 過去の日中戦争、太平洋戦争の由来を後世に語り伝えるために昭和11年祝吉尋常高等小学校の郡元出身者が発起人となり、従軍帰還者遺族の方々と共に建設委員会を結成し、一般各位の御協力を得て、平和祈念の碑を建立したものです。
<所在地> 都城市郡元町(稲荷神社内)
<所有者名> 稲荷神社
<建立時期> 平成7年8月15日
<詳細の問い合わせ先> 稲荷神社 |
|
| [40] 被爆殉没之地 | <碑 名> 被爆殉没之地
<来 歴> 戦前、都城市にあった川崎航空(現・川崎重工業)の都城工場に学徒動員の小林中学校(現・小林高校)3年生157名が、現在の都城農業高校グラウンドがある位置に建てられた「高千穂寮」で寄宿舎生活をしていたが、昭和20年5月8日の朝、警戒警報を受けて集団で退避中に、米軍の爆撃に遭遇して10名が死亡し、多数の負傷者が出ました。 被爆者の鎮魂と平和への新たなる祈りを捧げるために、昭和56年5月8日に同地に建立されたものです。
<所在地> 都城市祝吉町1−5−1 都城農業高校グラウンドの北西の一角
<所有者> 都城農業高校
<建立時期> 昭和56年5月8日
<合祀柱数> 10柱
<詳細の問い合わせ先> 都城農業高校 電話:0986−22−4280 |
|
| [31] 都城市山田町 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市山田町山田3881 山田総合支所横
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和30年4月30日
<合祀柱数> 515柱
|
|
| [43] 慰霊碑(上長飯・一万城・広原地区) | <碑 名> 慰霊碑(上長飯・一万城・広原地区)
<来 歴> 日中戦争及び太平洋戦争で亡くなった戦没者名を刻み、後世に伝えるために慰霊碑が建立された。
<所在地> 都城市上長飯町78(小鷹神社内)
<所有者> 小鷹神社
<合祀柱数> 111柱
<詳細の問い合わせ先> 上長飯・一万城・広原地区戦没者慰霊碑奉賛会(小鷹神社内) |
|
| [46] 庄内空襲之碑 | <碑 名> 庄内空襲之碑
<来 歴> この碑は、平成7年8月に庄内小学校同窓会有志を中心とした多くの協力により建立されたものです。 昭和20年当時、庄内小学校は日本軍の兵舎や食糧倉庫となっていたことから、同年8月6日正午前に米軍による機銃掃射や焼夷弾の攻撃をうけました。 大講堂や二階建ての校舎など4棟が焼失し、さらに西区、町区の民家も被弾や延焼により72戸が戦災に遭いました。
<所在地> 都城市庄内町(庄内小学校横)
<所有者> 不明
<建立時期> 平成7年8月 |
|
| [25] 都城市庄内地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市庄内町13245−2 庄内児童公園内
<所有者> 都城市庄内地区戦没者遺族協助会
<建立時期> 昭和30年4月16日
<合祀柱数> 566柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月18日 |
|
| [35] 満州事変戦没者合祀碑 | <碑 名> 満州事変戦没者合祀碑
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和9年8月13日
<来 歴> 満州事変の戦没者を合祀するために建立された碑です。
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課 電話:0986−23−2980 |
|