戦争を体験したひとびと
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学徒動員

高鍋町 男性
 学徒動員で生徒が学習を止めて工場等へ行き仕事するようになったのは昭和19年の秋です。私共高鍋中学校は、4・5年生4クラスが八幡製鉄所(現北九州市)へ行き、それぞれの係へ配属され仕事をしたものです。
 私は戸畑の沖台の旋盤工場で、初めて見る機械の操作から何とか飛行機のエンジンのボールベアリングが作れるようになるのに3ヶ月かかりました。今思えば宮崎から来た機械科生でない、全く知識のない中学生に手とり足とり、それこそイロハから教えていただいた指導員の方々の御苦労は大変なものだったと察します。それ程までに戦争中の日本は人手が不足し、生産向上の必要があったのです。
 八幡での動員作業中の思い出は沢山ありますが、私にとっては火の海の中を走り抜けた体験は忘れることができません。
 八幡は製鉄所があり日本でも早く空襲を受けた所です。昭和19年アメリカは中国大陸の飛行場からB29を飛び立たせ八幡の工場に爆弾を沢山落としました。しかしたいした被害もなく、民家に至っては私共が行った10月末には無傷の状態でそれこそ嵐の前の静けさで、市内には戦争にかりたてる幕が沢山かけてあったのを覚えています。例えば「欲しがりません勝つまでは」「一億一心火の玉だ」のような具合でした。
 しかし、とうとう八幡市街地も焼夷弾がしかも真昼間に落とされ、またたく間に市内全域が火炎に包まれることになりました。8月9日のことです。
 私は当時八幡製鉄本事務所の地下にある電話局の仕事に変わって、ちょうどその日は電話線の点検をしていました。空襲が激しくなり、焼夷弾が鉄筋で出来ている屋根にゴツンゴツンと当るのがわかり、外は大変だなと思いました。電話が通じている箇所を示すランプが次々に消えていくのを見ては、あそこも焼けている。こっちもだと悲しい思いでした。お陰様で私は鉄筋作りの電話局でしたので無傷でした。
 アメリカのB29の爆音がしなくなるとみんなで外へ飛び出しました。そして周りの変わりように立ちすくんでしまったのです。
 まず油と熱とで息苦しさを感じ、いろんな物の焼ける臭いををじっとこらえました。空はまっ黒、見える範囲は全て猛々と赤い炎と黒煙とがうずを巻いています。その場に伏せました。
 どのくらい経ったのかわかりませんが、沢山の従業員(女性が多かった)の方々が製鉄所の陸橋から我が家を指し、泣きわめく声で私ははっとしました。みんな「燃えている。私の家が燃えている」と、地だんだ踏んで悲しんでいるのです。その姿は40数年経ったいまでも瞳に焼きついています。火の海を眺めぼう然としていました。
 その後3時間位して私達学徒は「自分の寮へ帰れ」ということになり、高鍋中の児玉君と私の二人はまだ燃えさかっている家々を横にみながら、走り始めました。電柱は倒れ燃えている。電車は焦げただれ、レールも敷石も熱くそれを避けながら走りました。山が迫っている所では、ゴーッという音と共に熱風が波のように次々に押し寄せ、伏せている私達の上を通って行きます。作業着がもう燃え出すのではないかと波の来るたびに怖い思いをしました。何回となく火の波をやりすごし走り続けました。
 八幡市内のほとんどに焼夷弾が落ちたので手のほどこしようはなく、消火するどころではなくただ燃えつきるのを待つしかありませんでした。油をまいて火をつけるのですから逃げのびられた人はよかったといえましょう。
 途中、馬が倒れ破れた腹から腸が数メートルも飛んでいたり、防空壕から這い出している姿で黒こげになり死んでいる女性子供、やけどして鼻血を出しながら水道の水をやっと手ですくって飲んでいる人々、その姿を見ながら走らざるをえない私達でした。本当に何と表現してよいやら、むごい地獄絵図そのものでした。
 こうして約10キロの道を難を避けては止まりまた走りを繰り返し3時間ぐらいかけて寮に帰り着きました。無事に帰った喜びと疲れで玄関に座り込み舎監の先生から水をもらってやっと我に帰ったものでした。
 私達は帰るのが早い方で、それからみんなは帰ってきました。あれだけの空襲でしたが一人の死人も出ず、みんな揃ったのは幸いでした。
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