| 宮崎市 [21] 宮崎県ブーゲンビル島戦没者慰霊碑(鎮魂) | <碑 名> 宮崎県ブーゲンビル島戦没者慰霊碑(鎮魂)
<所在地> 宮崎市神宮2丁目4−3
<所有者> 宮崎県ブーゲンビル島生存者会
<建立時期> 昭和44年8月30日
<合祀柱数> 1,600柱
<特記事項> 第二次世界大戦において、南太平洋上における激戦地の一つであったブーゲンビル島における戦没者の御霊を祀るために、生還された方々の浄財により建立された。 |
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| 宮崎市 [22] 宮崎特攻基地慰霊碑(鎮魂) | <碑 名> 宮崎特攻基地慰霊碑(鎮魂)
<所在地> 宮崎市本郷北方樋渡
<所有者> (土地)財団法人赤江振興会地方協力会 (管理)宮崎県特攻基地慰霊碑奉賛会
<建立時期> 昭和58年3月
<合祀柱数> 138柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 毎年4月
<特記事項> 宮崎特攻基地(赤江海軍飛行場)から銀河特攻機47機、搭乗員140名並びに陸海攻撃・雷撃作戦に搭乗員605名が出撃しており、鎮魂碑のほか慕銘碑が建立されている。 |
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| 都城市 [23] 都城市中央地区 | <碑 名> 慰霊碑
<所在地> 都城市小松原町 神柱宮西側公園内
<所有者> 都城市奉賛会
<建立時期> 昭和9年8月13日(陸軍墓地) 昭和30年8月
<合祀柱数> 3,035柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月中旬 |
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| 都城市 [24] 都城市志和池地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市上水流町 志和池の城山址
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和29年12月 昭和39年12月再建
<合祀柱数> 397柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月8日 |
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| 都城市 [25] 都城市庄内地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市庄内町13245−2 庄内児童公園内
<所有者> 都城市庄内地区戦没者遺族協助会
<建立時期> 昭和30年4月16日
<合祀柱数> 566柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月18日 |
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| 都城市 [26] 都城市西岳地区 | <碑 名> 忠霊碑
<所在地> 都城市高野町 西岳小学校の横
<所有者> 個人
<建立時期> 昭和30年11月
<合祀柱数> 338柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 11月8日 |
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| 都城市 [27] 都城市中郷地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市安久町5206−1 中郷運動広場横
<所有者> 都城市中郷地区遺族会(中郷地区忠霊塔奉賛会)
<建立時期> 昭和35年11月20日
<合祀柱数> 554柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月25日 |
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| 都城市 [28] 都城市山之口町 | <碑 名> 慰霊塔
<所在地> 都城市山之口町花木1589 山之口小学校内
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和38年12月1日
<合祀柱数> 388柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 9月23日 |
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| 都城市 [29] 都城市高城町高城地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市高城町大井手2641−1 郷土資料館裏
<所有者> 都城市高城町遺族協助会
<建立時期> 昭和28年12月20日
<合祀柱数> 696柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月 献花方式 |
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| 都城市 [30] 都城市高城町有水地区 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市高城町有水(有水寺境内)
<所有者> 都城市高城町有水戦没者遺族会
<建立時期> 昭和45年10月30日
<合祀柱数> 171柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月3日 |
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| 都城市 [31] 都城市山田町 | <碑 名> 忠霊塔
<所在地> 都城市山田町山田3881 山田総合支所横
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和30年4月30日
<合祀柱数> 515柱
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| 都城市 [32] 都城市高崎町 | <碑 名> 英霊之碑
<所在地> 都城市高崎町大牟田1651−3 高崎中学校横 旭ヶ丘公園内
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和30年 昭和46年8月18日再建
<合祀柱数> 612柱
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 10月18日 |
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| 都城市 [33] 都城特別攻撃隊はやて慰霊碑 | <碑 名> 都城特別攻撃隊はやて慰霊碑
<所在地> 都城市都島町380
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和52年11月15日
<合祀柱数> 81柱、掩護隊員多数
<慰霊祭(追悼式)の時期> 年1回 4月6日
<特記事項> 昭和20年の沖縄戦において、南九州の陸海軍航空基地からは、爆弾と片道燃料だけを積み込んだ特別攻撃機が、日夜続々と出撃していきました。 当時、都城市の郊外には東・西飛行場があり、昭和20年4月、この基地から初めて四式戦「疾風」特別攻撃隊が沖縄周辺の目標めざして、南の空へ飛び立っていきました。 以来、7月1日まで十七次に及ぶ出撃が行われ、未だ少年の面差しを残す20歳前後の若い特別攻撃隊員が出撃していきました。 戦後32年の歳月と変容によって、基地一帯は当時の面影を偲ぶよすがもありませんでしたが、33回忌を迎えるに至って、隊員の遺族や各方面に慰霊碑建立の気運が高まり、昭和52年の建立となりました。 アフリカ産の黒みかげ石で、都城陸軍東・西飛行場から出撃した特攻振武隊はやての状況などが刻まれています。
<詳細の問い合わせ先> 都城市特別攻撃隊戦没者奉賛会(都城市障害福祉課内) 電話:0986−23−2980 |
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| 都城市 [35] 満州事変戦没者合祀碑 | <碑 名> 満州事変戦没者合祀碑
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和9年8月13日
<来 歴> 満州事変の戦没者を合祀するために建立された碑です。
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課 電話:0986−23−2980 |
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| 都城市 [36] 戦傷病者の碑 | <碑 名> 戦傷病者の碑
<所在地> 都城市都島町380(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和55年1月
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課内 電話:0986−23−2980 |
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| 都城市 [37] 軍馬建立之碑 | <碑 名> 軍馬建立之碑
<来 歴> 日中戦争から太平洋戦争にかけて日本全域から動員され、徴用従軍した軍馬は約10万頭と言われていますが、戦死・病死した軍馬は一頭も故郷へ還ることが出来ませんでした。 そこで、日中戦争並びに太平洋戦争に動員された軍馬の慰霊並びに占領軍により徴傭された軍馬の顕彰を行うため、終戦40周年の記念事業として、軍馬慰霊顕彰碑が建立されました。 (陸軍墓地内には、この他にも昭和10年と昭和18年に建立された軍馬記念碑があります)
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和60年11月
<詳細の問い合わせ先> 宮崎県軍馬顕彰会
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| 都城市 [38] 陸軍墓地納骨堂 | <碑 名> 陸軍墓地納骨堂
<来 歴> この納骨堂は、旧陸軍第23連隊関係で日中戦争以降の戦没者の分骨を個人ごとに納め、恒久に祭祀する目的で昭和13年にこの地に建立されたものです。 (元々は明治43年に都城へ歩兵第64連隊が配置されたとき、日清・日露戦争で戦没した郷土出身者の遺骨を納めるために現在のホテルハイツ跡地へ建立しましたが、敷地が狭く、参拝が不便であったことから昭和13年に現在の場所へ移りました)
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<合祀柱数> 納骨数:9,395柱 内訳:日中戦争:4,992柱、太平洋戦争:3,718柱、終戦以降:685柱
<詳細の問い合わせ先> 都城市特別攻撃隊戦没者奉賛会(都城市障害福祉課内) |
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| 都城市 [39] 済南事変戦死者之碑 | <碑 名> 済南事変戦死者之碑
<来 歴> 済南事変の戦死者を合祀するために建立された碑です。
<所在地> 都城市都島町380番地(都島公園内)
<所有者> 国(九州財務局宮崎財務事務所内)
<建立時期> 昭和4年
<詳細の問い合わせ先> 都城市障害福祉課
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| 都城市 [40] 被爆殉没之地 | <碑 名> 被爆殉没之地
<来 歴> 戦前、都城市にあった川崎航空(現・川崎重工業)の都城工場に学徒動員の小林中学校(現・小林高校)3年生157名が、現在の都城農業高校グラウンドがある位置に建てられた「高千穂寮」で寄宿舎生活をしていたが、昭和20年5月8日の朝、警戒警報を受けて集団で退避中に、米軍の爆撃に遭遇して10名が死亡し、多数の負傷者が出ました。 被爆者の鎮魂と平和への新たなる祈りを捧げるために、昭和56年5月8日に同地に建立されたものです。
<所在地> 都城市祝吉町1−5−1 都城農業高校グラウンドの北西の一角
<所有者> 都城農業高校
<建立時期> 昭和56年5月8日
<合祀柱数> 10柱
<詳細の問い合わせ先> 都城農業高校 電話:0986−22−4280 |
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| 都城市 [41] 戦災復興記念碑 | <碑 名> 戦災復興記念碑
<来 歴> 都城市が太平洋戦争時、米軍機の空襲で甚大な被害を受けた戦災地の復興を祈念して、昭和41年2月に建立したものです。
<所在地> 都城市大王町8の11付近(岩脇橋北交差点前)
<所有者> 都城市
<建立時期> 昭和41年2月 |
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